為替レートの変遷

日本以外の先進国は、第二世界大戦後、再び固定為替相場制の時代を迎えた。1930年代以降の為替切り下げ競争の反省から、1944年にアメリカのブレトン・ウッズで連合国通貨金融会議が開かれ、ここで取り決められたブレトン・ウッズ協定によって、金為替本位制が採用されたからである。アメリカがドルの金兌換を保障し、各国は固定相場を維持できるよう国際収支調整を行う。このブレトン・ウッズ体制によって、戦後25年間にわたって安定した国定為替相場の時代が続いたが、インフレ下の失業と国際収支赤字に悩むアメリカは、1971年8月にドルの金兌換停止を中心とする新経済政策を発表した。

ブレトン・ウッズ体制の根幹部分が機能停止に追い込まれたのだから、国際通貸秩序に与えた影響は大きく、世界経済は混乱に陥った。ドルショックあるいはニクソンショックと呼ばれる。ドルショックに対応するため、1971年12月にアメリカ・ワシントンのスミソニアン博物館で、10カ国蔵相会議が聞かれ、米ドルの切り下げを伴う新しい為替相場が決められた。円の対米為替レートは360円から308円に切り下げられた。またスミソニアン体制の下では、固定相場の上下2.25%幅での変動のなかに、実際の為替レートを収めることが決められたが、そもそもドルの金兎換という中心メカニズムを欠いていたため長続きせず、結局1973年2月に完全な変動相場制へと移行することとなった。

その後の日本の対米為替レートは、大きな変動を伴いながらも、250円を中心とした動きをみせた。それを大きく変えたのが1985年のプラザ合意であった。ニューヨークのプラザホテルで行われたG5の席で、レーガノミクスのなかで発生したアメリカの国際収支赤字とドルの独歩高を修正する目的で、各国が協調して為替レートを調整することとなった。その効果は大きく、わずか1年ほどで円はドルに対して3割以上も切り上がり、一時は1ドル150円まで上昇した。この急激な日高は輸出産業を直撃し、日本経済は深刻な円高不況に陥った。また円高によって製造業の海外移転が加速し、このころから産業の空洞化という言葉が一般化した。この円高不況対策のため、日本銀行が大幅な金融緩和を続け、やがてそれがバブル経済の発生に結びついた。

円 / ドル
明治33年(1900) 2.03
大正5年(1916) 2.00
昭和元年(1926) 2.13
昭和10年(1935) 3.50
昭和15年(1940) 4.27
昭和25年(1950) 360.00
昭和45年(1970) 360.00
昭和46年(1971) 349.33
昭和47年(1972) 303.17
昭和48年(1973) 271.70
昭和49年(1974) 292.08
昭和50年(1975) 296.79
昭和51年(1976) 296.55
昭和52年(1977) 268.51
昭和53年(1978) 210.44
昭和54年(1979) 219.14
昭和55年(1980) 226.74
昭和56年(1981) 220.54
昭和57年(1982) 249.08
昭和58年(1983) 237.51
昭和59年(1984) 237.52
昭和60年(1985) 238.54
昭和61年(1986) 168.52
昭和62年(1987) 144.64
昭和63年(1988) 128.15
平成5年(1993) 111.20
平成7年(1995) 94.06
平成15年(2003) 115.93
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