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国家の威信をかけて行われた国策事業

2020年(令和2年)に2度目の東京オリンピックが開催されるが、かつて東京がオリンピック開催都市として決定しながら実際には行われなかった「幻の東京オリンピック」があった。1937年(昭和12年)、中国で「慮溝橋事件」が発生した。近衛文麿内閣は「これ以上戦争を拡大しない」との声明を発表したものの、戦火は広がり続けた。そして1938年(昭和13年)、閣議で「東京開催取りやめ」の勧告が出され、アジアで初開催となるはずの東京オリンピックは、開催返上することになってしまった。拠出した金額は当時の金額として90万円と、決して少なくない痛手を伴う決断であった。代わりの候補地として、次点となっていたヘルシンキでの開催が予定されたが、第二次世界大戦に突入した影響を受けて結局中止という決断が下された。オリンピックの歴史は戦火によって二度、開催を断念することとなる。

「幻のオリンピック」となってしまった1940年東京大会の招致に尽力し、日本における「オリンピックの父」と呼ばれた柔道の創始者・嘉納治五郎は、この閣議の2か月前、オリンピック返上を知らぬまま太平洋上の氷川丸の船内で息を引き取っていた。

苦渋の決断から20年、再度の立候補を行って東京オリンピックが実現したことは、関係者一同にとって悲願達成の瞬間であった。アジアで初、有色人種国家初という、オリンピックの歴史にとっても大きな意味を伴うもので、国家の威信をかけた国策事業として取り組まれた。しかし、1954年(昭和29年)、1960年(昭和35年)の夏季大会開催地に立候補したが、ローマ(イタリア)の前に敗れた。

新幹線、首都高速開通、民間施設も建設ラッシュ

それでも招致意欲は衰えることがなかった。そして1959年(昭和34年)5月26日、再び立候補した東京が、西ドイツのミュンヘンで開催されたIOC総会において、ついに1964年(昭和39年)の開催地に選出されたのである。

開催が決定するや「東京オリンピック組織委員会」が設置され、国家予算として国立競技場をはじめとする施設整備の約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用に23億円が計上される国家プロジェクトとして推進されることになった。現在の価格に換算すると約2800億円になる。

おりしも、日本は右肩上がりの経済成長を遂げている最中であった。所得倍増・高度経済成長政策には新たに大会事業が組み込まれ、国立代々木競技場第一体育館や国立霞ヶ丘競技場といった競技施設建設のほか、首都高速道路や東海道新幹線の建設に約9900億円の投資がつぎ込まれた。東京中が新しく変わっていく、まさにターニングポイントとなったのがこの東京オリンピック開催決定という出来事だったのである。

建設工事が進む国立代々木競技場

代々木競技場第一体育館と同競技場第二体育館。建物の設計は建築家の丹下健三で、建物は吊橋のように高い柱を立てて、そこから大きな屋根を吊りさげるという作り。そのため、建物の中には柱がなく、どこからでも競技を見ることができる。1963年2月に工事を始め、1964年8月に完成しました。国立代々木競技場そばの森に見えるのは明治神宮。競技場と選手村の間の道は、昭和50年代にホコ天ライブの舞台として有名な国道413号で、代々木会場と霞ヶ丘会場を結ぶ道路として整備された。第二競技場左側にはNHK放送センターが建設された。

1万人を収容する選手村

東京オリンピックに参加する選手5000人以上、関係者をふくめると約1万人の宿舎として、代々木選手村をはじめ、八王子、相模湖、大磯、軽井沢などに選手村の分村がたてられました。なかでも代々木の選手村は最大規模でした。アメリカから返還されたワシントンハイツの跡地の東西800m、南北1500mの敷地に、これまであった住宅のほかに、4階建ての集合住宅をたてて、オリンピックに参加する5900人を収容する施設を用意しました。村内には選手たちが寝泊りする部屋のほかに、食堂、売店、理容室(美容室)、ホールなどが用意されました。オリンピックがはじまる1か月ほど前に入村式がおこなわれ、準備が始められました。

※ワシントンハイツって何?

1945(昭和20)年、日本にアメリカ軍が進駐し、日本軍の練兵場があった現在の代々木公園あたりを接収して、1947年、ワシントンハイツを建設。将校やその家族が住む800戸余りの住宅や学校、商店、教会などができた。オリンピックの東京開催が決まると、日本はアメリカからこの地を返還してもらい、代々木競技場体育館と、選手や役員が宿泊する選手村をたてた。

東京オリンピックにおける主なインフラ整備

●1959年から首都高速道路の建設が始まる
●1961年から青山通り、六本木通り、環状7号線が整備される
●地下鉄日比谷線が全面開通(1964年8月29日)
●オリンピックに向け、羽田空港が整備される
●羽田空港までのモノレール開通 (1964年9月17日)
●東海道新幹線、東京~大阪間が開通(1964年10月1日)
●国立競技場、日本武道館など各競技場が建設される
●大会後、選手村跡地は代々木公園に

オリンピック直前の地震

開催まで4か月にせまった1964年6月16日、新潟県の村上市沖を震源とするM7.5の新潟地震が発生し、新潟市は震度5の強震を記録しました。市内では昭和石油のタンクが爆発し、炎はまわりの民家にも燃え広がりました。地盤の液状化により、市内の橋がこわれ、鉄筋アパートがたおれるなど、大きな被害をもたらしました。1時間40分後には津波が発生し、約1万000戸が浸水しました。この地震による死者26人、負傷者は447人、被災者は新潟、秋田、山形県などで8万6000人を超えました。

戦後のめざましい復興を全世界にアピール

1964年10月10日、3時30分過ぎ。オリンピック序曲の調べとともに、11万5000人の大観衆で埋まった国立競技場に、世界3の国と地域の旗が揚がった。続いて、鐘の音を電子音でアレンジした黛敏郎作、「オリンピック・カンパノロジー」に迎えられ昭和天皇、香淳皇后が姿を現す。両陛下ご着席ののち、国歌・君が代が厳かに吹奏された。さあ、いよいよオリンピックが東京で開催される。屈辱と絶望の敗戦から20年弱。アジア、というより有色人種国家で初めて開催されたこの大会は、文字通り、日本復興を高らかに世界に向けてアピールするものだった。

開会式スケジュール概要

13:58 天皇陛下式場にご臨場
13:59 日本国歌演奏
14:00 選手団入場行進開始
14:45 OCC会長挨拶
14:48 IOC会長歓迎の辞
14:52 天皇陛下開会宣言
14:53 オリンピック旗掲揚
14:58 オリンピック旗の引継ぎ
15:01 祝砲
15:03 聖火入場と点火
15:08 選手宣誓
15:09 放鳩
15:11 日本国歌斉唱
15:17 天皇陛下ご退場
15:18 選手退場

第18回東京大会(1964年)概要

開催国:日本
期間:10月10日~24日
参加国・地域:93
参加選手数:5152 (日本選手は355)
競技数:20
種目数:163

アジアではじめて開かれたオリンピック。大会のようすは人工衛星をつかったテレビ中継で、世界中へおくられ、敗戦から見事に復帰した日本の姿を世界中にアピールする舞台となった。エチオピアのアベベがマラソンで、ローマにつづいて2連覇をはたした。チェコスロバキアのチャスラフスカが体操女子で3種目の金メダルを獲得、優美な演技は「オリンピックの名花」とたたえられた。

陸上男子100mは、「黒い弾丸」「黒い旋風」などとよばれたアメリカのボブ・ヘイズが10秒0の新記録を出し、準決勝では追い風のため参考記録となったが、9秒9を記録、10秒の壁をや′おる俊足を見せた。男子棒高跳びではアメリカとドイツの選手が9時間にわたる戦いをつづけ、アメリカのハンセンが5m10をクリアして優勝。競泳ではアメリカのドン・ショランダー(18歳)が男子100mと400mの自由形、400mと800mのフリーリレーで4冠を達成した。競泳女子ではオーストラリアのドーン・フレイサーが100m自由形で、メルボルン、ローマに続く3大会で金メダルを獲得し、「水の女王」とよばれた。

日本勢はレスリング、柔道、体操、重量挙げ、バレーボールなどであわせて16個の金メダルを獲得し、大躍進を果たしました。

●メダル獲得数ベスト5
 
1位 アメリカ 36 26 28 90
2位 ソ連 30 31 35 96
3位 日本 16 5 8 29
4位 東西統一ドイツ 10 22 18 50
5位 イタリア 10 10 7 27
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