芥川賞
1949年
第21回 由起しげ子「本の話」 小谷 剛「確証」
第22回 井上 靖「闘牛」
1950年
第23回 辻 亮一「異邦人」
第24回 なし
井上靖
「理想的な新聞記者って者は完全なニヒリズムで…何も自分としては持ってないってことを書こうとした」「(本願は)詩的なものを破って本当の詩を描く」「(副賞5万円は)恥をいうようですが実は借金だらけだったもんですからね。……なにしろありがたいお金でしたよ」(1950年12月6日、「アサヒグラフ」)
1951年
第25回 石川利光「春の草」ほか 安部公房「壁」
第26回 堀田善衛「広場の孤独」「漢好」
1952年
第27回 なし
第28回 五味康祐「喪神」 松本清張「或る『小倉日記』伝」
1953年
第29回 安岡章太郎「悪い仲間」「陰気な論しみ」
第30回 なし
1954年
第31回 吉行淳之介「驟雨」ほか
第32回 小島信夫「アメリカン・スクール」 庄野潤三「プールサイド小景」
1955年
第34回 遠藤周作「白い人」
第34回 石原慎太郎「太陽の季節」
1956年
第35回 近藤啓太郎「海人舟」
第36回 なし
1957年
第37回 菊村到「硫黄島」
38回 開高健「裸の王様」
1958年
第39回 大江健三郎「飼育」
第40回 なし
1959年
第41回 斯波四郎「山塔」
第42回 なし
1960年
第43回 北杜夫「夜と霧の隅で」
第44回 三浦哲郎「忍ぶ川」
北杜夫
「(父・斎藤茂吉に小説を書くことを秘密にしていたことについて)子どもにはたいへん横暴な父でして、勉強以外はなんでも禁止でした。将棋も、昆虫採集も詩や小説を書くなどもってのほかでしたから」「私は晩熟型だから、ほんとに小説を書きたくなるのは40を過ぎてからでしょう」(1960年7月20日)
1961年
第45回 なし
第46回 宇能鴻一郎「鯨神」
1962年
第47回 川村晃「美談の出発」
第48回 なし
宇能鴻一郎
「学生作家というので、世代論みたいな意見を求められるのはイヤですね。人間いかに生き、いかに死すべきかということには、時代的差異などありませんね」「学者と作家の両方になりたい。これは芥川賞をもらっても変らないつもりです。私は原始・古代の日本文化を専攻していますが、学界にとどまらず、広く大衆、いや世界中に、古代日本の強烈なイメージを、どれだけ与えることができるか、これが私の目標です」(1962年1月24日)
1963年
第49回 後藤紀一「少年の橋」 河野多恵子「蟹」
第50回 田辺聖子「感傷旅行」
1964年
第51回 柴田翔「されどわれらか日々」
第52回 なし
田辺聖子
趣味は家事です。おつけものをつけたり編みものをしたりするのが好きで…‥。女はやはり結婚するのが一番いいと思います」「大阪商人のきびしき、たくましさは、中にはいってみなければわかりません。デッチでも店員でも巧みにつかんで、しゃにむに一人前にしてゆく、こういうものを書きたいと思ったのです」(1964年1月22日)
1965年
第53回 津村節子「玩具」
第54回 高井有一「北の河」
1966年
第55回 なし
第56回 丸山健二「夏の流れ」
丸山健二
「作家になろうなどと意気込んだ気持ちはなかったんです。ただ、自分の才能を伸ばせるだけのばしてみようと思って」(1967年1月24日)
1967年
第57回 大域立裕「カクテル・パーティー」
第58回 柏原兵三「徳山道助の帰郷」
1968年
第59回 大庭みな子「三匹の蟹」 丸谷才一「年の残り」
第60回 なし
1969年
第61回 清岡卓行 「アカシャの大連」
1970年
第63回 古山高麗雄「プレオー8の夜明け」 吉田知子 「無明長夜」
第64回 古井由吉「幸子」
吉田知子
「本当にびっくりしました。無名で、これまで一度も候補になったことはないし、主人を含め、だれも受賞するかも、なんていってくれなかったし……。埴谷雄高氏に小説を読んでいただいた程度で、文学上の師という人はいません。抱負といっても突然のことで……」(1970年7月21日)
1971年
第65回 なし
第66回 李恢成「砧をうつ女」 東蜂夫「オキナウの少年」
1972年
第67回 宮原昭夫「推かが触った」 畑山博「いつか汽笛を鳴らして」
第68回 郷静子「れくいえむ」 山本遭子「ベティさんの庭」
李 恢成
「5回目にきまって、芥川賞を受けたというより、日本人の志を受けたという気持ちです」「自分の体験とかなり密着していますが、私小説とは思っていません」(1972年1月21日)
畑山博
「正直いって、芥川賞は欲しかった。自分の考えた小説の意味を、社会的に認められたということと、多くの人に読んでもらえるという二点うれしい」「あくまでも被害者の立場で書いていくつもり。でも、自分の中に加害者をみつけてドキリとすることもあります」(1972年7月21日)
郷静子
「かつては文学少女で今度は文学カアチャンで末は文学バアサンで一生を終えるはずだった私が、有名人に仲間入りして……、まことに人の運命は明日をも知れぬものでして。今の私は少し時間がほしい。受賞がたった半年のお祭り騒ぎに終わらぬためにも」(1973年2月10日)
1973年
第69回 三木卓「鶸」
第70回 森敦「月山」 野呂邦暢「草のつるぎ」
1974年
第71回 なし
第72回 阪田寛夫「土の器」 日野啓三「あの夕陽」
森敦
「書いても書かなくても、作家。賞をもらわなくても作家。そういうものであるはずです」「ぽくは、知識を無にする修養をしたつもり。過去の一点を現在と仮定すれば、人生は反復できます。文学とは、人生を2回、くりかえすことを可能にするものだと思います」(1974年1月18日)
1975年
第73回 林京子「祭りの場」
第74回 中上健次「岬」 岡松和夫「志賀島」
1976年
第75回 村上龍「限りなく透明に近いブルー」
第76回 なし
中上健次
「生活をぶつけるほか、なにがありますか。仕方ないじゃないですか。もっとも作品の中の事件が実際身辺にあったものと思われちゃ困りますよ」「土方の世界?大好きですよ。生きているのを確かめるのに、肉体労働以外なにがありますか」「(好きな作家は、の問いに)谷崎一郎に徳田秋声、それに上田秋成、あれ『あきなり』というんです。ボクは学校を出ていない代わり、本は自分でよく読む。三島由紀夫?大いに興味がある。これ、尊敬するということとは違いますよ。間違わないでください」(1976年1月16日)
村上龍
「(作品のどの程度が原体験か、と聞かれて)程度はうまくいえないが、完全な創造の部分は少ない。でも耽溺してたら書けないから、そこを離れて書いたのです」「同じ学校の女の子から『水彩画のようだ』といわれたのが一番うれしい」「(武蔵野美術大は)卒業したいと思う。こんな話があります。水泳が無類に好きだが、記録的にはたいしたことなく、かえって陸上短距離が世界的だった選手がいた。ぼくもそんな方かも」(1976年7月6日)
1977年
第77回 三田誠広「僕って何」 池田満寿夫 「エーゲ海に棒ぐ」
第78回 宮本輝「蛍川」 高城修三「榧の木祭り」
1978年
第79回 高橋三千綱「九月の空」 高橋揆一郎「伸予」
第80回 なし
池田溝寿夫
「うーん、ボクは絵も小説も方法論と思うけどなあ」「つまりですね。何を善くかという内容よりも、いかに表現するか。小説でいえば文体ですね」「ボクは日曜画家ではない。プロとアマチュアの差は知っています。だから、日曜小説家にはなりたくない」(1977年7月15日)
高橋三千綱
「前に群像新人賞をもらった時は募下で優勝という感じだったが、こんどはいわば十両優勝、ぼくは野球でいえば、高めの悪球打ちかも知れないが、これからは球を選んで書きつづけたい」(1978年8月7日)
1979年
第81回 重兼芳子「やまあいの煙」 青野聴「患者の夜」
第82回 森禮子「モッキングバードのいる町」
1980年
第83回 なし
第84回 尾辻和彦「父か消えた」
重兼芳子
「私は本当に平凡な台所のおかみさんなんです」「毎日、夫と子どもたちを送り出し、家事をすませてから、原稿用紙に向かいます。文学なんて家庭生活を犠牲にするほど大それたものとは思いませんもの」(1979年7月19日)
尾辻克彦
「二十歳以降、画家としては最先端まで生きたいと思って仕事をしてきたが、最近は絶壁に立ったという気がして、文章を書く快感の方が強くなってきた。やがて小説を書くことにも重圧がかかるようになればまた絵が描けるのではないかと思っています」(1981年2月17日)
1981年
第85回 吉行理恵「小さな貴婦人」
第86回 なし
1982年
第87回 なし
第88回 加藤幸子「夢の壁」 唐十郎「佐川君からの手紙」
吉行理恵
「(兄の吉行淳之介氏について質問がとぶと)以前は作品を発表すると『今度のはいいね』などと電話も
ありましたが、最近はずいぶん会っていません」(1981年7月17日)
唐十郎
「受賞のお祝いに親友の作家村松友視さんから贈られたワインの樽には"唐の横車"と書かれていた。これからの私は文学の横車になることを願っています」1983年2月17日)
1983年
第89回 なし
第90回 笠原淳「杢二の世界」 高樹のぶ子「光抱く友よ」
1984年
第91回
第92回 木崎さと子「青桐」
1985年
第93回
第94回 米谷ふみ子「過越しの祭」
1986年
第95回
第96回 なし
米谷ふみ子
「アメリカに行ってから26年間。英語ばかりの中で、一番なつかしかったのはふるさとのぬくもりのある言葉で、それが生理的要求にまで変わって小説を書き出しました。小説は書き終わっても適切な言葉を永遠に探せないおもいで消耗します。作家の夫と一緒に生活するのは業みたいなもので、私が長年こうむった被害を今後は夫がこうむらねばならないでしょう」(1986年2月17日)
1987年
第97回 村田喜代子「鍋の中」
第98回 池澤夏樹「スティル・ライフ」 三浦清宏 「長男の出家」
1988年
第99回 新井満「尋ね人の時間」
第100回 南木佳士「ダイヤモンドダスト」 李良枝 「由照(ユヒ)」
池澤夏樹
「ぼくは人と人との関係よりも、人とモノの関係に傾いている。いわゆる人間関係よりもちょっとぶれたところに興味がある」「いま小説は面白いし、書き手の側を啓発してくれるんですよ」(1988年1月14日)
新井満
「戦後43年たって私も歳をとったが、日本も歳とった。足し算を積み重ねるようにして、豊穣で過剰な社会となったが、人びとは生活に疲れ、主体がなくなってきた。失われた自分を探し歩く『空洞の文学』というか、引き算の文学を書いていきたい」(1988年8月15日)
李良枝
「『由照(ユヒ)』を書き上げて明るくなった、と友人にいわれる。心によどむこだわりがひとつ、ふっきれた感じ」「韓国人と日本人は互いのありのままを見つめ、尊敬し合うことから再出発しなくては」「いま、母国の土と、それを共有する名も知らぬすべての人に感謝したい」(1989年1月13日)
直木賞
1949
第21回 富田常雄「面」「刺青」
第22回 山田克郎「海の廃園」
1950
第23回 今 日出海「天皇の帽子」 小山いと子「執行猶予」
第24回 檀一雄「長恨歌」「真説石川五右衛門」
1951
第25回 源氏鶏太「英語屋さん」ほか
第26回 久生十蘭「鈴木主水」ほか 柴田錬三郎「イエスの裔」
1952
第27回 藤原審爾「罪な女」ほか
第28回 立野信之「叛乱」
1953
第29回
第30回 なし
1954
第31回 有馬頼義「終身未決囚」ほか
第32回 梅崎春生「ポロ家の春秋」 戸川幸夫「高安犬物語」
1955
第33回
第34回 新田次郎「強力伝」 邱永漢「香港」
1956
第35回 南条範夫「燈台鬼」 今官一「壁の花」
第36回 今東光「お吟さま」 穂積驚「勝島」
1957
第37回 江崎誠致「ルソンの谷間」
第38回 なし
1958
第39回 山崎豊子「花のれん」 榛葉英治「赤い雪」
第40回 城山三郎「総会屋錦城」 多岐川恭「落ちる」
1959
第41回 渡辺幸恵子「馬淵川」 平岩弓枝「鏨師」
第42回 司馬遼太郎「梟の城」 戸板康二「団十郎切腹事件」
1960
第43回 池波正太郎「錯乱」
第44回 寺内大吉「はぐれ念仏」 黒岩重苦「背徳のメス」
平岩弓枝
「まだ小説は四つしか書いておりません。これから古い伝統的なもの、つまり職人とか芸人の世界をテーマに書いてゆきたいと思います。今日よく才女才女ということを聞かされますが、私は鈍才凡女です」(1959年7月23日)
1961
第45回 水上勉「雁の寺」
第46回 伊藤桂一「蛍の河」
1962
第47回 杉森久美「天才と狂人の間」
第48回 山口瞳「江分利満氏の優雅な生活」 杉本苑子「孤憩の岸」
水上勉
「ワシは貧農の出やから、根性はいやしいんや。(直木賞は)本当にほしかった」(1961年7月19日)
1963
第49回 佐藤得二「女のいくさ」
第50回 安藤鶴夫「巷談本牧亭」 和田芳恵「塵の中」
1964
第51回
第52回 永井路子「炎環」 安西篤子「張少子の話」
1965
第53回 藤井重夫「虹」
第54回 新橋遊吉「八百長」 千葉治平「虜愁記」
1966
第55回 立原正秋「白い罌粟」
第56回 五木寛之「蒼さめた馬を見よ」
1967
第57回 生島治郎「追いつめる」
第58回 野坂昭如「アメリカひじき」「火垂るの墓」三好徹「聖少女」
1968
第59回
第60回 陳舜臣「青玉獅子香炉」早乙女貢「倭人の檻」
1969
第61回 佐藤愛子「戦いすんで日が暮れて」
第62回 なし
1970
第63回 結城昌治「軍旗はためく下に」 渡辺淳一「光と影」
第64回 豊田穣「長良川」
結城昌治
「すでに作家生活も10年を越えます。受賞作は東京地検に勤めていた昭和27年ごろ、素材にぶつかり、以来十数年あたためてきたものだが、軍隊の実態が見失われそうな、何か逆もどりしそうなこの時代に、この作品を書くことができてほんとうによかったと思う」(1970年7月21日)
渡辺淳一
「石黒忠篤氏の古い資料を読んでいるうちにヒントを得て書いたものだが、受賞を機に作品の領域を広げ、新しい推理小説なども手がけたい」(1970年7月21日)
1971
第65回
第66回 なし
1972
第67回 井上ひさし「手鎖心中」 綱淵謙錠「斬」
第68回 なし
井上ひさし
「10年間ほど小さな劇場の芝居をやったり、テレビに関係したり横にそれてばかりいたが、この賞を杭にしてどこへもずれないようにやってゆきたい」(1972年8月14日)
綱淵謙錠
「18年間、編集者の生活をしていてこういう壇に立つとは夢にも思ってなかった。直木三十五先生のことはそのころ学んだが、その重さを考えて今後続けてゆくつもり」(1972年8月14日)
1973
第69回 長都日出雄「津軽じょんから節」「津軽世去れ節」藤沢周平「暗殺の年輪」
第70回 なし
1974
第71回 藤本義一「鬼の詩」
第72回 半村良「雨やとり」 井出孫六「アトラス伝説」
藤本義一
「実は今着ているタキシードは、最初に直木賞候補になった時、授賞式に必要だからと野坂昭如氏にすすめられてつくったもの……。今日、本来の目的にやっと役立ってタキシードも喜んでいるでしょう」(1974年8月10日)
1975
第73回
第74回 佐木隆三「復讐するは我にあり」
1976
第75回
第76回 三好京三「子育てごっこ」
1977
第77回
第78回 なし
1978
第79回 津本陽「深重の海」 色川武大「離婚」
第80回 宮尾登美子「一絵の琴」 有明夏生「大浪花諸人往来」
津本陽
「私のように田舎で小説を書いていると、中央の文壇に対する拒絶反応が強く、受賞当初は何の感慨もわかなかったが、このごろようやく感動がひろがってきた」(1978年8月7日)
色川武大
「プロの勝負の秘訣も最初はフォームを崩さないことだといわれる。働きすぎて少し安易になってきた最近の仕事を反省し、一から出直したい」(1978年8月7日))
1979
第81回 田中小実昌「浪曲師朝日丸の話」「ミミのこと」
阿刀田高「ナポレオン狂」
第82回 なし
1980
第83回 志茂田景樹「黄色い牙」 向田邦子「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」
第84回 中村正軌「元首の謀叛」
向田邦子
「50歳すぎて新しい分野のスタートラインにたててうれしいし、スリルもあります。健康に不安もありますが、耳元でピストルが鳴った以上走らざるをえない。今日からは直木賞を夫とも思い、といっても10年間世話になったテレビともうまく折りあって、たのしい作品を書いていきたい」(1980年8月11日)
志茂田景樹
「同人誌の経験も師匠もありませんが、雑誌の新人賞候補になったときの選評を切り抜いて何度も読み返し新たなるチャレンジをしてきました。受賞といっても、選評の幸い評を読んで参考にしたい。今後ともこの大きな体にムチ打っていただきたい」(1980年8月11日)
1981
第85回 青島幸男「人間万事塞翁が丙午」
第86回 つかこうへい「蒲田行進曲」 光岡明「機雷」
1982
第87回 深田祐介「炎熱商人」 村松友視「時代屋の女房」
第88回 なし
つかこうへい
「これからの時代は、前向きのマゾヒズムがないとやっていけないんじゃないかと思いますよ。受賞作もそれがうまくいった。・・・いつまでも悪意でありつづけたいと思いますね」(1982年1月20日)
村松友視
「受賞決定以来の浮き浮きした気分がいまも続いているが、まだ賞をもらっていない人たちのうちにすごい才能がキラ星のごとくいることを忘れずに書きつづけていきたい」(1982年8月16日)
1983
第89回 胡桃沢耕史「黒パン浮虜記」
第90回 神吉拓郎「私生活」 高橋治「秘伝」
1984
第91回 連城三紀彦「恋文」 難波利三「てんのじ村」
第92回 なし
1985
第93回 山口洋子「憤歌の虫」「老梅」
第94回 森田誠吾「魚河岸ものかたり」林真理子「最終便に間に合えば」「京都まで」
1986
第95回 皆川博子「恋紅」
第96回 逢坂側「カデイスの赤い量」 常盤新「遠いアメリカ」
山口洋子
「今日は太陽がいっぱい降り注いでいるような気がします。生まれて初めての経験です。酒場をやっているときに見た人間のギリギリの姿や、作詩をやって身につけた省略法など、いろいろなものがプラスして今回の受賞になったと思います」(1985年7月19日)
林真理子
「直木賞の受賞者が入っている『文芸手帳』をみて、最後の空白の部分に林真理子と書くといかにもそぐわなくて笑ってしまう感じでした。私は直木賞について、一生そんなチグハグさを抱くことでしょうが、とまどいながらも、いつまでも新人の気持ちで精進していきたい」(1986年2月17日)
1987
第97回 白石一郎「海狼伝」
山田詠美「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」
第98回 阿部牧郎「それぞれの終楽章」
1988
第99回 景山民夫「遠い海から来たcoo」 西木正明 「凍れる瞳」
第100回 藤堂志津子「熟れてゆく夏」 杉本章子「東京新大橋雨中図」
山田詠美
「自分と世間の山田詠美像とのギャップに悩んでこの2年は、ストイックに机に向かっていたんです。なのに評判は悪くなる一方‥‥‥。でも、賞をもらって、なんかとても気持ち、楽になりました。あたしこれからは、もっと自堕落なることに決めました」「ここまできたのは偶然でなく、ずっと作家になりたかった」(1987年8月18日)