ビジュアルな情報・娯楽誌
少年月刊誌は昭和30年代に入ると全てB5判に変わり、ベビーブーム世代をターゲットにビジュアルな総合娯楽誌となっていった。そして1958(昭和33)年頃より、マンガ誌と呼べる内容になっていくのだ。笑いも昂奮も感動も情報も、マンガが担うようになっていき、同時に、紙製付録会戦が激化し、20大付録といった形で、B6判のマンガ付録が十数冊も付くといった状況になっていった。月刊誌は、子どもたちにとって唯一のメディアであり、娯楽、情報全ての面倒を見ていたのである。マンガ中心になったとはいえ、SFや推理、冒険等の挿絵たっぷりの小説はまだ残っていたし、兵器やメカの図解、スポーツ情報、一口知識や笑い話、世界の謎といったものも子どもたちに喜ばれていた。厚紙と輪ゴム、ハトメで作るチャチな組立て付録でさえ、一晩で壊れることがわかっていても子どもたちをあこがれさせ、夢見させた。掲載された通信販売の広告は輝き、プレゼントは豪華に見えた。さらに月刊誌を中心に、戦記、忍者と様々なブームが創られていった。それは最新のトレンドを送り出してくる、月一の唯一の楽しみだったのである。だが、高度経済成長下、テレビという新しい娯楽メディアが各家庭に入り込み、裕福さが時代をおおっていく中で、プラモデルや最新玩具が登場し、週刊マンガ誌がよりスピーディーに物語るようになっていくと、少年月刊誌は、そのペースで全てをカバーすることはできなくなっていった。団塊の世代がマンガ、それも子どもマンガを卒業し始めていく頃、月刊誌は危うくなっていった。1962年の『少年クラブ』を皮切りに、次々と消えていった少年月刊誌は、67年の『少年』の休刊によってほぼ終わることになる。怪獣ブームやTVアニメを取り入れて、生き延びようとした雑誌も、60年代末には一誌を残して、その役割を終えていったのである。
『黄金バット 』
「ウワッハッハ」と邪悪を懲らすため登場する黄金バットのトレードマークであった。地底にもぐり、天空に逃れんとする悪の一味ナゾーを打ち倒さんと神出鬼没・宇宙の果てまで追い迫る黄金バットは戦後の主役であった。大きな茶色のハット、赤マントに線の服、白いタイツに黄金杖の洒落た出で立ちはまさにスーパーヒーローだった。この黄金バットの先陣を切って戦う正義の味方はライオン朝日号を従えた大きな鉄棒を振りまわす蛇王である。黄金バットは昭和5年に紙芝居に登場、6~7年に人気の最盛期を迎えたが、9年の終り頃に姿を消した。多くの原作、類似作が出没するほどであった。戦後再びヒーローは帰ってきた。まず紙芝居が響き渡った。その直後、戦後のヒーロー第一号が初めて本になった。まず加太こうじ版が昭和21年にフレンド社から刊行された。ついで23年、永松健大作版が明々社の「冒険活劇文庫」(26年まで連載)に登場し、絵物語ブームヘ火をつけた。『黄金バット』は40年代にもテレビ動画、劇場用映画として復活、50年には"幻の名作"として復刻(桃源社)され、4度目の蘇りをやってのけた。黄金バットはこうもりをイメージしている。悪が黒バット、正義が黄金バットである。黒バットの周辺にはいつも人の血を吸う夫こうもりがうごめいている。男バット団の中で二つの耳のある頭巾をかぶっているのがナゾーと呼ばれる首領である。黄金バットもナゾーもガイコツというところにハラハラドキドキする要素がある。いずれもただのガイコツであるが、正邪の雌雄を決せんと戦うところが魅力である。
『月光仮面』
民放テレビが全国ネットワークをほぼ完成するのは昭和32~33年頃だが、このテレビ時代の申し子のようにうぶ声をあげたのが『月光仮面』(原作・川内康範)である。33年2月よりKRテレビ(現東京放送)から放映されると、たちまち全国を席巻。子どもたちの間に月光仮面ごっこが流行した。月光仮面は一躍、ブラウン管のヒーローとなった。追っかけるように「少年クラプ」は桑田次郎画で連載を開始した(33年5月~36年10月)。さらにつづけて7月末頃から映画化、シリーズは6本を数えた。なお漫画は桑田以外にも井上球一、村山一夫が描いている。とそれぞれサングラスのフレームが違っており、桑田次郎のは四角で、井上、村山らのは映画と同じくフレームがとんがっていた。子供たちはサングラスの考証にもうるさく両派にわかれて夢中になったようだ。
マニア誌の登場
マンガを中心とした総合雑誌的な趣の少年誌・少女誌に対し、専門誌的なものも昭和30年代には幾つかあった。戦前の漫画の流れを汲む『浸画劇場『月刊のらくろ』、W・ディズニー作品を中心とした『ディズニーの国』、絵物語の復活を目論んだ『WILD』等々。それらはある意味で一部の読者を相手にしていた小部数のマンガ誌だったと言えるだろう。それよりもっとマニアックに、マンガ家志望者に向けた研究誌としてあったのが、プロのマンガ家が主催する『まんがマニア』(貝塚ひろし)、『まんがNO1』(赤塚不二夫)、『劇画界』(さいとうたかを等)等だった。これらはマンガ研究会の機関誌であり、プロと読者をつなぐ情報誌であり、マニアを育成する教育誌という意味合いを持っていた。この流れの中に、TVアニメ「鉄腕アトム」大ヒットを背景に、より一般的にファンを結集しようとする『鉄腕アトムクラブ』が誕生するのは1964(昭和39)年のことだ。多い時で3万人近い会員を抱えていたという。この会誌が発展解消して生まれたのが「まんがエリートのためのまんが専門誌」と銘打たれた『COM』である。実験的かつ商業主義的でもある方針をうたって昭和42年1月にスタートした。
一方、貸本劇画界の中では、一般に向けて打って出ようとした『まんがサンキュー』、劇画の新しい波をまとめようとした『ごん』、そしで、「忍法秘話」を母体に白土三平の発表の場を確保する目的で創刊された『ガロ』といったマニアックな雑誌が生まれていった。手塚、石ノ森、永島といった作家をメインとする『COM』、貸本マンガという戦後マンガの傍流から生まれてきて、白土、水木、つげ等を中心にした『ガロ』は、若い描き手達に支持されることで、単なる娯楽にとどまらない、新しい表現としてのマンガを求め、若い才能を拾いあげていった。読者の間ではそれぞれの派が生まれ、60年代末という時代の中でマンガは若い世代の重要な自己表現として展開していくことになる。
月刊少女マンガ
壮大なテーマのSFマンガや歴史マンガは、少女マンガの専売特許だった。少年マンガ編集部がキスシーンでオタオタしているころ、少女マンガは倒錯の愛を濃厚に描いていたわけだ。どの雑誌を見てもおんなじに見える人には見える少女マンガ誌も、当時は派閥になるほどの個性がそれぞれあった。最初はどんな男のコを求めているかで、それに合ったマンガ誌を手にする。同級生がいいとか、ちょっとぷっとんでるヒーロータイプいいとか、手の届かない美少年タイプがいいとか。で、読みつづけているうちにその雑誌のカラーにすっかり洗脳されてしまい、違うマンガ誌を読んでるコとは話が合わなかったり。当然、愛読誌ごとに違う人生を歩んでしまったかも。1946年に『それいゆ』(ひまわり社)と『ひまわり』(ひまわり社)が創刊されて以来、少女マンガの世界は広く世間に浸透していった。その3年後の1949年には『少年少女冒険王』(秋田書店)、『少女』(光文社)、『少女世界』(富国出版社)が創刊された。それ以後も、少女マンガの新雑誌創刊が相次ぎだ。55年には『なかよし』(講談社)が創刊され、同じく55年に『りぼん』(集英社)が創刊された。
「りぼん」
今や「乙女」とよべるのは2歳以上13歳未満。その乙女をターゲットにしたのがこの「りぽん」だ。「おとめちっく」「アイピーマンガ」と呼ばれた田淵由美子、陸奥A子、太刀掛秀子のマンガは、女子小学生の心をしっかりとつかんだ。主人公は、とりえのないドジなやせっぽちの女のコ。お相手はなぜか大学生。背が高くて、やさしいほほ笑みとさわやかさが印象的。一条ゆかりの正統派ドラマの連載は、次を読ませる魅力があった。そして特筆は付録の数々。組み立て式のおでかけパックやレターセットなど雑誌付録の限界に挑戦。「なかよし」「ひとみ」「ちゃお」と、付録つき雑誌はいろいろあれど、女子大生までデイリーユーズできるデザインの付録は「りぽん」だけ。
「花とゆめ」
かなり後発の1974年創刊された「花とゆめ」。初年になる頃には堂々たる独自の世界を作っていた。そして1997年まで連載を続けた「ガラスの仮面」(美内すずえ)「パタリロ」(魔夜峰央)は、月2回刊で息の乱れもない。和田憤二、柴田昌弘と、少女マンガと隔絶したタッチの男性マンガ家の執筆も多い。当時話題の中心は家出少年が団体でふらつく「はみだしっ子」(三原順)と桜の紋の入ったヨーヨーで犯罪をあぱく女子校生刑事「スケパン刑事」(和田慎二)。いつの時代かも不明で、リアルな生活感皆無。結構ムリな投定なのだが、炒な説得力とストーリーで読ませた。