テレビ前史
1925年(大正14)3月22日。
NHKの前身・東京放送局(JOAK)がラジオ放送を開始、日本の放送が幕を開けた。聴取契約数3500。そしてそのころ、ラジオの次・テレビジョンの可能性を模索している研究者たちがすでにいた。最初の成果は若き研究者の手により、静岡県浜松で結実。
日本のテレビは「イ」から始まった
ちょうど昭和最初の日に当たる1926(昭和元)年12月25日。静岡県の浜松高等工業学校の一室で数センチサイズのブラウン管を使った受像機に一つの文字、カタカナの「イ」が映し出された。これは、今のテレビと原理的に同じ方法による初の実験成功だった。開発したのは、後に〝日本のテレビの父″と呼ばれることになる同校助教授・高柳健次郎(1899~1990年)。
テレビの研究は19世紀後半、ラジオの研究とほぼ同じころから始まっていたが、当時は、ようやくラジオが実用化し始めたころ。高柳は、映像も無線で伝えることが可能なはずだと、「無線遠視法」の研究を続けていた。高柳が浜松に赴任したのは1924(大正13)年。その際、テレビジョンの研究をしたいと述べた高柳は、校長から「そんなばかげたことを研究するなんて」とひどくしかられた。日本のラジオ放送が始まるのは翌25年のことだから無理もない。しかし校長は、「もし可能なら大変なことだ」とその空想的研究を許し、予算も与えた。当時の高柳は20代半ばの青年教師。浜松高等工業が掲げていた「自由啓発」の気風がなければ、彼の研究は遅れたのかもしれない。
当時、日本でテレビの研究をしていたのは高柳のグループだけではなかった。早稲田大学や東京電気、日本電気、逓信省電気試験所なども研究に着手していた。〝遠くのものを(tele)見る(vision)″という夢は、多くの技術者の心をとらえていた。
1939(昭和14)年5月13日、東京・世田谷の日本放送協会(NHK)放送技術研究所から送信された日本初のテレビ電波(映像と音声)は、13キロ離れた新放送会館での受信に成功した。この実験を見た随筆家の渋沢秀雄の記録によれば「若い職員が画面に現れて、ラジオの初期と同じように『いかがでしょうか、よく見えますか、よく見えますか、こちらは安定しております』などと恥ずかしそうに言っていた」という。
NHKは高柳健次郎を技術研究所に迎え、明年に予定されていた東京オリンピックでテレビ放送を実現しようと、準備を進めた。その成果は、走査線441本、現行の地上波テレビ(走査線525本)に近い、当時としては世界最高水準の域に達するまでになっていた。初の公開放送は39年、逓信省主催の「興亜逓信博」の会場で行われた。この公開放送は皇族方もご覧になったので大評判になった。実はこの翌40年に東京オリンピックが予定されていたため、世界から集まるであろう外国人たちの前で公開放送して、大いに"国威発揚"をはかろうという狙いがあったため、研究、開発のテンポは急ピッチだった。ドラマの誕生は40年4月13日で、伊馬春部作「夕餉前」というホームドラマを実験放送した。しかし、予定の東京オリンピックは中止、翌41年には太平洋戦争開戦のためにテレビジョン研究は中断された。
初めてブラウン管式受信機に映し出された「イ」の静止画像
写真は研究初期の高柳の装置を復元したものだが、最初の装置は数センチ四方で画面も暗く、暗箱に入れて映像を確認したという。テレビ研究初期はさまざまな方式が考案され、高柳が小さな画面で実験を進めていたころ、早稲田大学のグループが別の方式で1メートル以上の大画面を実現させるなど、ブラウン管方式が初めから優秀と認められたわけではなかった。
1876(明治09)年 ベル、電話機発明
1895(明治28)年 マルコーニ、無線通信実験に成功
1897(明治30)年 ドイツのブラウン、「ブラウン管」を開発
1898(明治31)年 東京~大阪間長距離電話開通
1920(大正09)年 世界初のラジオ局放送開始(アメリカ)
1923(大正12)年 無線による静止画像伝送に成功(アメリカ)
1925(大正12)年 イギリスでテレビジョンが発明される
1925(大正14)年 日本のラジオ放送始まる(東京、大阪、名古屋)・日本放送協会設立
1926(昭和元)年 高柳健次郎、ブラウン管に「イ」の字を映し出す実験に成功
1929(昭和04)年 イギリスで実験放送が開始される
1935(昭和10)年 世界初のテレビ定時放送始まる(ドイツ、フランス)
1937(昭和12)年 高柳、走査線441本、現在のテレビに近い受像機を完成
1939(昭和14)年 NHK放送技術研究所、テレビ電波の送受信に成功アメリカでテレビ定時放送始まる
1940(昭和15)年 日本初のテレビドラマ<夕餉前>(ゆうげまえ)を実験放送