エンターテイメント番組

夢であいましょう

夢であいましょう

一週間で、最も特別な夜━━。
1960年代初頭、土曜の夜10時台という遅めの時間に一家団らんを実現させた番組、それが〈夢であいましょう〉だ。ウィットに富んだ会話や笑い、心弾む音楽など良質かつ最先端のエンターテインメントを提供した。出演者 は、すでにマルチ・タレントとしての本領を発揮していた黒柳徹子、"寅さん"となる前の渥美清、日本人より日本のことを知っている"ヘンな外人"E・Hエリック、ベテランの三木のり平ら多彩な顔ぶれ。ここに坂本九、ジェリー藤尾、田辺靖雄、九重佑三子、ジャニーズといった若い歌手たちが加わり、都会的な雰囲気を作り出していった。

そして、忘れてはならないのが司会の中島弘子の存在である。デザイナーが本業の彼女はテレビでの仕事に不慣れだったが、そのたどたどしさと、頭を前ではなく横に傾げる気品あふれるおじぎが視聴者に受けた。構成を手がけた永六輔と音楽担当の中村八大の力も絶大だった。番組の一コーナー「今月の歌」からは、永と中村の"六・八コンビ"の手により、数々のヒット曲が誕生。「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」「帰ろかな」などは世代を超えて愛され、特に「上を向いて~」は日本語の曲として唯一、アメリカのチャートで1位に輝き、世界中で親しまれた。バラエティーの分野では初となる「ラジオ・テレビ記者会賞」も受賞。(夢であいましょう)は、人々を文字どおり夢の世界に誘ってくれたのだ。

夢であいましょう

ステージ101

ステージ101

──精鋭たちの上質なエンターテイメント──
60年代に産声を上げた音楽バラエティーは、より洗練された形で70年代に受け継がれた。(ダニー・ケイ・ショー)(アンディ・ウィリアムズ・ショー)など海外の番組に影響を受けたスタッフ・出演者たちが作り出した(ステージ101)は、その規格外れな内容とともに、多感な音楽好きの若者の心をとらえた。

NHK最大の広さを諮る「101スタジオ」から発信された同番組のメインとなるのは、30名を超える若者たちのコーラス・グループ。"ヤング101"と名付けられたメンバーのほとんどが、歌やダンスはもちろん、楽器もこなすという精鋭ぞろいで、外国人も参加していた。レッスンは厳しく、メンバーたちは週に4日をこの番組のために費やしていたという。そして彼らによって「若い旅」「怪獣のバラード」「涙をこえて」といった名曲の数々が生まれた 。セットにおいては、日本で初というサイクロラマ装置を使用し、背景に夕焼けや青空、サイケデリックな模様などを瞬時に投影。クレーンカメラも駆使して、スタジオいっぱいに流動的なシーンを描き出した。まさにテレビの"青春時代″を生きた音楽番組といえるだろ。

レッツゴーヤング

レッツゴーヤング

(ステージ101)が終了するのと入れ代わる形でスタートした(レッツゴーヤング)は、(101)とは異なるアプローチで若者たちのハートをつかんだ。一つはアイドルの起用、もう一つはホールでの公開番組としたことである。1年目は鈴木ヒロミツ、団しん也のコミカルな司会陣に加え、当時トップアイドルとして活躍していたフォーリーブスがレギュラー出演。前年に完成したNHKホールを舞台とし、会場には黄色い歓声が鳴り響いた。その後、年ごとにずうとるび、キャンディーズらが出演し、1977(昭和52)年に番組のオリジナル・グループが誕生する。"サンデーズ″である。歌って踊れる新人の育成を目的に結成されたもので、デビューしたばかりの狩人や太川陽介らが参加。同年、女性メンバーが加わり男女混成となる。

このころの司会は作曲家の都倉俊一やピンク・レディーらが務めた。そして、80年には松田聖子と田原俊彦がサンデーズに加入。スーパーアイドル2人を擁して、番組の人気は決定的なものとなった。人気歌手が出演する一方、番組が育てたアイドルも発信。こうして(レッツヤン)は、80年代のアイドル黄金期を牽引していった。

お笑いオンステージ

お笑いオンステージ

1950年代から60年代にかけて関西を中心に隆盛を誇った公開コメディー番組は、70年代に入ると公開バラエティー番組にその座を奪われていく。そんな時期、(お笑いオンステージ)はコメディー色を強く残したバラエティーとして登場した。

72(昭和47)年、スタート時の出演者は笑福亭仁鶴と三波伸介・戸塚睦夫・伊東四朗のてんぷくトリオ。当時は「仁鶴のお見合いコーナー」や「てんぷく笑劇場」、「演芸コーナー」で構成された。そして翌年、番組人気を爆発させる企画が生まれることになる。ある著名人の子どもが出演して、その子に顔の特徴を聞きながら親の似顔絵を描く。この単純な内容に"笑い""驚き""涙"のすべての要素を詰め込んだのが新コーナー「減点パパ」だった(のちに「減点ファミリー」)。ふだんは重厚な芝居で知られる俳優も、子どもの予想もつかない発言にタジタジ。親が子どもに関する質問に答えられなければ、似顔絵の上に次々と×印がつけられていく。あぁ、父親の威厳が……。だけど、最後はパパに対するフォローも忘れない。子どもが読む作文は親への愛情に満ち、見ているこちらも思わずもらい泣き。似顔絵にも、たくさんの○印がつけられた。似顔絵を描いた三波伸介は、「役者になろうか、漫画家になろうか迷った」というほど。特徴をとらえた絵はプロ級だった。番組は三波を柱として10年間、アットホームな笑いを送り続けた。そして番組終了の年、三波も帰らぬ人となった。

ジェスチャー

ジェスチャー

日本でテレビ放送が始まった1953(昭和28)年2月。同じ月にスタートし、一躍人気を博した番組が、(ジェスチャー)である。男女に分かれたチームから1人が出てきて、視聴者から寄せられた問題を身振り手振りだけで表現し、当てさせるというゲーム。まさに、「目で楽しむ」テレビ時代の到来にはふさわしい番組だった。男女各チームのキャプテンを務めたのは、喜劇役者として活躍していた柳家金語楼と、戦前、松竹少女歌劇で一世を風びした"ターキー″こと水の江滝子。のちのジェスチャーの定番ともなるようなさまざまな"キメ手″の考案者でもある金語楼は、豊かな表情と持ち前のサービス精神で笑わせ役に徹し、水の江は制限時間内に問題を要領よくまとめ、キメ手を繰り出していく明噺さが光った。

ゲスト出演者には当時の人気俳優や歌手、画家、評論家、スポーツ選手らが顔をそろえた。だが名優だからといって、ジェスチャーがうまいとは限らない。逆に演技とは縁遠いうような人物がユニークなキメ手を披露するなど、意外な一面が垣間見えるのも番組の大きな魅力だった。

ジェスチャー

私の秘密

私の秘密

「事実は小説よりも奇なりと申しまして……」詩人・バイロンの言葉を取り入れた高橋圭三アナウンサーの名ぜりふで親しまれた人気番組(私の秘密)。これはアメリカの番組<My Secret>から想を得たもので、珍しい体験や秘密のある一般の人々を題材にクイズを展開、まさに"小説より奇なる事実″が次々と登場した。

「私たち一家は、私が結婚式、父母が銀婚式、祖父母が金婚式を同時に挙げました」「私たち親子は高校の同じクラスで勉強中です」、そして少年時代の下條アトムが、友人でウランという名前の女の子と『鉄腕アトム』さながらの"アトムとウラン″として出演したこともある。 もう一つの目玉は、著名人のゲストの"ご対面″コーナーだった。何年も会えなかった恩師に巡り会い、舞台で泣き出してしまうゲスト、自分が名付け親になった人の名前を思い出せず、大汗をかくゲストなど、さまざまな場面が興味を引いた。高橋アナの軽妙な司会ぶりも話題を呼んで、視聴率は常にトップクラス。放送界初の「菊池寛賞」も受賞した。

私の秘密

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