昭和のバラエティ番組

低俗番組、一億総白痴化。しかしそれはテレビの黄金時代でもあった。

昭和30年代後半のバラエティーとコメディー番組は、大ざっぱに分けると東のバラエティー、西のコメディーということになる。いいかえればクレージーキャッツを筆頭とするナペプロ・タレント総出演による『シャボン玉ホリデー」『若い季節』対関西コメディアン総出演による『てなもんや3度笠』『スチャラカ社員』が火花を散らす、歌と笑いの黄金時代だ。ほとんどの子どもたちは日曜夜六時から前田製菓提供『てなもんや三度笠』を見て、続いて六時半から牛乳石鹸提供『シャボン玉ホリデー』を見ることを、一週間の最大の楽しみにしていた。

光子の窓

まず東のバラエティーから始めよう。日本のバラエティー番組史上、最大の功労者はNTVの井原高忠だろう。日本初の本格バラエティー番組『光子の窓』(33~35年)を手がけたのが彼だ。放送開始の翌年、アメリカで向こうのバラエティー番組の作り方を一から学んできた。「生番組なのに信じられないようなこともやってた。顔のアップを写しセリフをいってる間に出演者の服を変えちゃうとかネ。カメラがパッと引くと、後ろのセットまですっかり変わってるとかネ。」と井原はいう。『光子の窓』のレギュラー出演者は草笛光子、藤村有弘、伊藤素道とリリオリズムユアーズほか。台本作家は冗談音楽やCMソングで知られる三木鶏郎の門下生 - 三木鮎郎、キノトール、永六輔らであった。リリオは♪ローレン、ローレン・・・で始まる『ローハイド』の主題歌を、途中で♪オッペケレッツのパア・・・などとデタラメな詞に替えて歌っていたコミックバンドで、当時はクレージーキャッツ(彼らも『光子の窓』に出ていた)よりも人気があった。

クレージーも『おとなの漫画』(フジテレビ 34~39年)や『シャボン玉ホリデー』のレギュラーとなって爆発的な人気を得る。『おとなの漫画』は風刺コント番組だが、安保闘争中にデモ警備の警官をからかうコントをやって当局に注意されたそうだ。その台本を書いたのは青島幸男だった。この種の風刺コント番組では古今亭志ん朝の『サンデー志ん朝』(フジテレビ 37~40年)も人気があり「○○さん、××で△円安」という株式市況のもじりが流行。安保といえば、永六輔が『光子の窓』から抜けたのも、デモのせいだという。ある日、『光子の窓』の台本をすっぽかしてデモに行ってしまい、これが原因で井原とけんか別れした。その後、永はNHKの『夢であいましょう』の台本作家兼作詞家となり、このバラエティー番組の傑作から「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」などのヒット曲も生まれたのである。

巨泉・前武ゲバゲバ90分!

『夢で逢いましょう』より一日遅れてスタートしたNHK『若い季節』は、プランタン化粧品という会社を舞台にしたコメディー毎回50人余りの人物が登場するミュージカル調のバラエティーでもある。♪ワーオ、ワーオと始まる主題歌はザ・ピーナッツ。NTVに話を戻すと『シャボン玉ホリデー』は井原高忠(彼はザ・ピーナッツの名づけ親でもある)の番頭格だった秋元近史が手がけた番組で、この番組からも数々の傑作ギャグとヒット曲が生まれた。クレージーの最初の大ヒット曲は『スーダラ節』で、子どもたちが盛んに♪スイスィ、スーダラ・・・とやっていた。

井原高忠の代表作『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』は、アメリカの『ラフ・イン』を手本にしている。公開番組でもないのに、あとで作った笑い声を入れるというアメリカ式の手法も、この番組で初めて使われたように思う。『ラフ・イン』だけでなく、CMのように短いコントをつめ込む手法は『セサミ・ストリート』から学んだそうだ。のちにNHKが『セサミ・ストリート』(47年~)を放送し始めると、井原は『ゲバゲバ』とほぼ同じメンバーに『スター誕生!』出身の桜田淳子らも加えて『カリキュラマシーン』(49~53年)という、コント仕立ての幼児教育番組?を作っている。これは『ゲバゲバ』よりもコンパクトにまとまっていて楽しかった。そしてこれが、井原高忠がNTVで手がけた最後のパラエティ番組となった。

西高東低型の"低俗番組"

何でもやりまショー

クイズ番組、視聴者参加番組は、制作費が安上がりということもあって早くから作られていた。クイズ番組の基本スタイルを確立したのはアメリカの同種の番組を翻案した『私の秘密』あたりだろう。推理ドラマを見たあとで、探偵役の回答者たちが謎ときをする『私だけが知っている』(NHK 33~38年)や、その子ども版『ぼくもわたしも名探偵』(NHK 37~38年)も人気があった。民放では視聴者が出演して景品や賞金を争う番組が盛んに作られた。その草分けは、三國一朗の名司会と奇抜なゲームが売りものの『何でもやりまショー』(NTV 28~34年)である。ゲームに勝つと賃金、負けるとバヤリース・オレンジ半ダースのおみやげ。コカ・コーラなどほとんど出回っていない時代であり、バヤリースの半ダース入り手提カートンというのが、当時は大変モダンなものに見えた。36年ごろには、バヤリースのCMにチンパンジーが登場し、その声をクレージーキャッツが演じて人気を呼んだ。天皇ごー家出席の皇族親睦会にも余興で登場。

『何でもやりまショー』の31年秋放送で"早慶戦の早大応援席に行き、慶大の旗を振ってこい"というゲーム(?)をやらせたところ、現場で混乱が起こり、これが大問題になった。それをみた大宅壮一が「低俗番組、一億総白痴化」と批判したという。これが流行語にまでなったことに大宅自身もいささかウンザリして、のちに「トウフを手づかみにして投げあったりするようなのが出てきたのを見て、戦時中から戦後にかけての物資欠乏時代を思い出して、むしょうに腹が立ったからで、別にテレビぎらいでも何でもない」(読売新聞38年12月10日)と書いている。これを機に低俗番組批判の世論が高まりを見せ、40年に放送番組向上委員会が設立される。同委員会が"低俗番組″第一号に指定し、改善を申し入れたのは『踊って歌って大合戦』『アベック歌合戦』『ちびっこのどじまん』の3本であった。これらの低俗番組批判と前後して、不良雑誌追放の"三ない運動"や『ハレンチ学園』『アシュラ』などの漫画を各県の児童福祉審議会が有害図書に指定する動きもあった。またコルゲンのテレビCM「おめえへソねえじゃねえか」をめぐる論争もあった。賛否いずれにしても、昭和40年代ごろまでは、まだそれらの動きが表立って見えるだけ、今よりも健全だったといえる。

がっちり買いまショー

視聴者参加番組には大阪制作のものが多いのも特徴だが、これもやはり低予算で作れるためだろう。それと、関西ではかなりエゲツナイことをやっても笑って許すという気質があり、そのために司会者にお笑いタレントを起用した番組が多い。夢路いとし、喜昧こいしか「3万円、1万円、5千円、運命の別れ道」とやる『がっちり買いまショー』(毎日放送=NET 39~50年)や、回答者がすべり台から水中に落っこちる(さすがに残酷すぎるので、のちに風船の上に落ちるように改められた)『ダイビング・クイズ』(毎日放送=NET 39~48年)などが、その典型だろう。また『夫婦善哉』(朝日放送=TBS 38~50年)ゲスト夫婦がその人生体験を公開。元夫婦で司会役ミヤコ蝶々と南都雄二が自らの私生活を暴露する絶妙な話術によりゲストもプライバシーをつい告白。48年雄二の死後は蝶々が1人で進行したトーク番組も、関西ならではのものだろう。

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