昭和のアニメ
漫画映画からアニメへ
東映動画発足時(昭和31年)の主要メンバーの一人だった薮下泰次は、東映動画の前身ともいえる日本動画在籍中に、テレビ用の短いアニメを手がけた。有名なNTV(日本テレビ)のオープニングタイトルに使われたハトが羽ばたくアニメだ。昭和28年の開局から現在まで(途中でカラー化され)使われているから、日本のテレビ史上最長寿のアニメということになる。
民放のテレビCM第2号は、NTV開局と同時に始まった精工舎の時報CMで、正午は実写、夜7時はアニメが使われた。このアニメのニワトリに続いて各種キャラクターが続々とCMに登場する。当時のCM制作スタッフの技術不足、ブラウン管の性能の悪さ(商品がはっきり映らない)など、いくつかの理由から、実写よりもアニメのCMが歓迎されたという。
昭和29年3月、森永製菓の「やっぱり森永ね」がテレビCMソング第1号となった。すでに27年7月、三木鶏郎の作詞作曲でラジオで歌われており、テレビ用にCM化するため、西川辰美のアニメーションをバックに製作した。実写とアニメをミックスした画面作りに加え、CMソングを流したわけだから、大変目新しいCMとして話題を呼んだ。
アニメにCMソングがついたシンキングCM第2号は、29年のチョコレートのCMで作詞・作曲は三木鶏郎。30年代の有名なCMソング(コマソンと呼ばれた)のほとんどが、彼の作である。コマソン歌手では『ヴィックス・ドロップ』の楠トシエが大当たり。コマソンは子どもたちの間で流行し"コマソンが童謡にとってかわった"と、大人たちを嘆かせた。
アニメCMのキャラクターは多いが、テレビ草創期から現在まで2014年まで55年以上続いたヤンマーの『ヤン坊マー坊』や桃屋の『三木のり平』シリーズは印象深い。寿屋(現・サントリー)の『アンクル・トリス』は『パパは何でも知っている』の中で放送されたため、子どもにも親しまれた。このシリーズも長く続いたが一時中断し、今から何年か前に復活したことがある。他にキリンの『リボンちゃん』やミツワ石鹸の3人娘の人形アニメも忘れられない。
アニメCMに続いて、いよいよ本格的な国産テレビアニメ番組が登場する。30分番組としては『鉄腕アトム』が第一号である。当時はまだアニメとは言わず漫画映画という呼び方が一般的だった。『鉄腕アトム』がスタートした38年、久里洋二、柳原良平、真鍋博が"アニメーション3人の会"を結成し、翌年、実験的な自主制作短編アニメーションを発表。このころから"アニメーション"という言葉が一般化した。
『鉄腕アトム』を制作した虫プロは、従来のアニメ作りを徹底的に簡素化することで初めて30分番組の制作を可能にした。絵を動かさない"止め"や"ロバク"、一秒間24枚必要な絵を8枚ですませるか"三コマ撮り″、格闘、爆発、自然現象などのシーンや各種背景を保管しておいて、順列組み合わせで何度も流用するかバンク・システム"の開発。これらの方法は、その後のすべてのテレビアニメに受け継がれていった。手塚治虫自身も、こうした低予算テレビアニメの功罪を承知してはいた。絵が動かない劇画的な作品が中心となり、キャラクター商品を売るために番組が企画され、アニメブームによってスタッフは酷使され、作品の質はさらに低下していった。"練馬の不夜城"と呼ばれた虫プロでは、若いアニメーターが突然死したことさえあるそうだ。過当競争による制作コストのダンピング、下請け制によるピンバネが横行し(それは現在も続いている)、各プロダクションとアニメーターは自転車操業に陥り、自分の首をしめていった。虫プロだけでなく、過労による事故死や自殺者まで出したプロダクションもある。40年代半ば、テレビアニメの制作現場は悲惨そのものだった。この時期の東映動画のアニメーター青春残酷物語として描かれた漫画が、林静一の『赤色エレジー』である。"アニメ工場"は紙と鉛筆さえあれば作れる。動画のトレースは複写機でできる。この容易さが下請け制度を拡大した。日本のテレビアニメは制作コストの安い韓国や台湾で下請け生産され、全世界へ輸出されてきた。まさにアニメ産業は日本経済の縮図なのだといえる。今では"純国産"のアニメは、ほとんど作られていない。
マーチャンダイジング、つまりキャラクター商品の版権収入が、よくも悪くもアニメブームを助長し、ひいては版権収入をあてにしての制作コストの値下げ、ダンピング競争の誘因となった。マーチャンダイジングの原点として『鉄腕アトム』とアトム商品をふり返ってみよう。38年1月1日、火曜日の夕方6時台に番組スタート。スポンサーは明治製菓だった。明治は37年から上原ゆかりを起用したCMでマーブル・チョコレートの売り上げを伸ばしていた。そこへライバルの森永製菓がパレード・チョコレートにビックリバッジという景品をつけて売り出した。ダッコちゃんのウィンクする日と同じように、見る角度で絵柄が変わるバッジだ。これが大当たりしたため、明治も38年7月からマーブルにアトムシールをつけて対抗した。番組もマーブルも、アトムシールのおかげでさらに人気を高め、39年1月から番組は土曜夜7時台に移り、30~40%の高視聴率をキープ。明治は他の製品にもシールやアップリケをつけた。原作漫画の単行本にもシールがつけられ、ベストセラーになった。
景品だけでなく、さまざまなアトム商品も売り出され、39年春にはその数800種に達した。虫プロに入る版権使用料は月平均500万円。また『鉄腕アトム』が年間3億円の契約、一本一万ドル(360万円)でアメリカに輸出され、手塚氏はこの成功を機に虫プロをマンガ映画製作に重点を置くと語った。
初の国産カラー・テレビアニメ『ジャングル大帝』は、制作費の2倍の一本3万ドルという値段で売れた(55年ごろからヨーロッパへ輸出されている日本のアニメはもっと安い)。これらの収入が虫プロのアニメ制作を支えていく。一方、『鉄人28号』のスポンサー・江崎グリコは鉄人ワッペンを景品につけてアトムシールの人気に迫り、シールやワッペン集めの行き過ぎが社会問題にもなった。他のメーカーの景品では丸美屋のエイトマンシール、コビトチョコレートのおそ松くんペナントなどがよりあった。これらの景品は子どもたちにとって駄菓子屋に売っていたメンコや写し絵の豪華版だったような気がする。写し絵というのは粗末な転写シールだが、アトムや鉄人のマジックプリントというのが、この写し絵そのものだった。駄菓子屋はしばしば貸本漫画屋とセットになっていた。通学路の途中に何軒かあって、子どもたちのたまり場、子ども文化の中心だった。
水木しげるの新作漫画が届くのを今か今かと待ち続けていた。その駄菓子屋・貸本漫画屋文化が、そのまま大資本の菓子メーカー・玩具メーカー・テレビアニメに乗っ取られたということかもしれない。ちなみにテレビアニメのキャラクター玩具としては『マジンガーZ』をポピー(現・バンダイ)が商品化した"超合金"シリーズが、現在まで続く巨大ロボットアニメ=玩具ブームの元祖である。
テレビアニメの多くは有名な漫画や童話を原作にしているので、詳述の必要もないだろう。ただ『狼少年ケン』や『ハッスルパンチ』(NET 40~41年)などの東映動画オリジナル作品は異色である。どちらもアメリカの漫画映画を思わせる傑作ギャグ・アニメだが、この路線はテレビアニメの主流にはなり得なかった。
昭和40年代前半から韓国や台湾での下請け制作が始まる。韓国下請け第2作『妖怪人間ベム』は、虫プロの『どろろ』とともに残酷アニメとして批判もされた。40年代半ばにはスポ根アニメがブームになるが、アニメ産業の実情はジリ貧状態で、47年に東映動画の合理化と指名解雇、48年に虫プロが倒産する。