事故史「新聞・雑誌から」
[法隆寺金堂壁画焼失]
「世界的に有名な印度のアジャンター壁画や、中国の奥地の敦煌千仏洞壁画などに立ちまじって時代の古さからもひけはとらず、出来栄えではむしろそれ以上であったわが法隆寺金堂壁画は、もう正当な意味で美術鑑賞の対象ではなくなっている。形だけはそっくりといっていいほどに残り、剥げ落ちた部分も案外少ないといわれるかも知れないけれど、豆炭の燃えかすのように鼠っぼく、またうすら赤ちゃけてカサカサになった壁面に、チョークで書いたような姿ばかりがぼんやりと残り、紅、緑、黄というような色合はみなどこかへ消えてしまった」(週刊朝日・1949年2月13日号)
[京浜東北線桜木町駅国電炎上事故]
「死体はすべて手足をくねらせ苦しい最後をしのぼせ、冷たい持主とともに散乱している遺留品の数々。半やけのクツがズラリと何十足もあり、新型のハイヒール、ゲタ、四つ葉のクローバーを刺繍した手がけ、弁当箱、『桜木町-鶴見。谷口美枝子、廿一歳』と読めるパス。国文法問題集などの遺留品が半焼けで眼にいたい」(1951.4.25)
[もく星号事故]
「大辻司郎君が、あんなことでポッコリ、まったくポッコリ死んだのであるから、私には意外ともなんとも、云いようのないショック、いやショックを通りこして、呆然たるばかりだ。いや、まったくウソみたいで、むしろ無感動に近い状態である。どうも飛んだお掛がせをしましたデス。あれは手の込んだデマであったデス。てなことを云いながら、ひょっこりと出てきそうな気がしてならない」(週刊朝日・1952年4月27日号の徳川夢声氏の手記)
[紫雲丸遭難]
「一たん安全なところに逃れた先生が教え子を救うため再び船室へかけこみ、ついに教え子と運命をともにした話が紫雲丸沈没事件を悲しく彩っている。11日朝の衝突直後、広島県豊田郡木江南小学校の井上信行先生(30)は男子生徒を導き避難させ、自分も脱出しようと甲板に一たん出た。その時船室から『先生助けて』と叫ぶ女生徒の声がした。みると20人ばかりが荷物をとりに船室へ降りていったまま、まごまごしている。『危ない、早く逃げるんだ』と叫んだが、女生徒達は早くも押しよせてきた海水のために、船室から出ようにも出られないで泣き叫ぶばかり井上先生はそのままとって返したが、たちまち船とともに沈んでしまった。昼すぎに引揚げられた先生の手には生徒達のボストンバッグがしっかりと握られていた」(1955年5月12日夕刊)
[宮城道雄氏転落死]
「琴の宮城道雄さんが汽車から落ちて無残な死をとげた。夜ふけの寝台車で独りで便所に行こうとして、間違えて昇降口のドアをあけたらしいという。いたましいことだ。内田百聞氏の随筆によると、宮城さんは方向勘はわるくて自分の家でも柱にぶつかってコブをこさえたり、ハシゴ段をふみそこねて脚をすりむいたりすることもあったそうだ。耳の音感はすはらしい天才だが、歩行には無とんじゃくなところがあったのかもしれない。失明したのは7歳のころで、月や星や天の川はハツキリ覚えていると語っていた。朝鮮の仁川に居たころ、弟さんが小学校の本で、『水が霧や雲や雨、霞、アラレ、露、霜といろいろに変わる』話を読んでいるのを聞いて『水の変態』を作曲したのが16歳のとき。琴の演奏家であるとともに、音の詩人であり、精力的な作曲家であった」(1956.6.26・「天声人語」)
[三河島事故]
「東京都荒川区荒川の国鉄常磐線高架線路で線路脇の砂利山に下り貨物列車が接触して脱線、並行して走ってきた下り取手行電車がこの貨車に追突して、前部一両が脱線して斜めになったところへ、反対側からきた上り上野行電車が猛烈なスピードで衝突した。このため上り電車も前部の5両が脱線、うち3両は約10㍍余りの土手の上から横倒しとなり、二階建て倉庫の屋根をぶち抜いた。ちょうど乗客も相当込んでいたため多数の死傷者を出す大惨事となった」「付近の目撃者の話『ガタガタという機関銃を撃つような音がしたのであわててとび出したら電車が脱線していた。私の店の従業員たちが総出で負傷者の救護をはじめたが、10分ほどあとこんどは上り電車が突っ込んできて大音響とともに転落してきた』」(1962.5.4)
[三池鉱爆発事故]
「事故発生後7時間余り、まだガスのにおいがたちこめる第二斜坑をくだった。背の高さの3倍もあるような三池の坑道は50メートル、100メートルと下って惨事の現場に近づくにつれ坑内の空気は体がふるえるようなきびしさを加えてきた。
坑底からゆらゆらと明かりが無数に上ってくる。遺体を運び出す救助隊のキャップランプだ。身をよけるそばを一つ、二つ、三つ、四つ。ひきもきらぬ遺体の行列。第五目抜きに着いた。昇りかけの人草がむなしく中途に止っていた。人車の中には弁当袋やヘルメットが一つ二つ忘れられていた。『わたしらがかけつけた時は、みんな人車からはい出とりました。一生懸命逃げようとしたとですね』。救助隊の一人がツバをのみこみながら語った」(1963.11.10)
[千日デパート火災]
「千日デパートは地階から7階まで可燃物の巣。地階は食品売り場が大半で、すべて内装張り。1、2階は小売店の寄り集まりでクツや服など燃える商品がぎっしり。とくに火が出たとみられる3、4階にあるニチイ繊維製品が大半。その上、7階のアルサロは新建材やじゅうたんなどが張りつめてある。このため、出火と同時に猛煙がたちこめ、あっという間に店内に煙が広がった。新建材などから有毒ガスが発生、市消防局は20人の酸素マスク隊を出したが、それでも目前が見えないほど。この激しい煙で7階にいた人たちは次々に飛び降りた。デパートの東側に救助用シュートが一つだけ降りていた。しかし、救助用シュートから降りてきた人たちを受けとめる人はだれもいなかったので、シュートから出てきた人たちは、勢いあまってコンクリートの歩道にたたきつけられ、そのまま意識を失ってしまった人もかなり。さらに同東側の商店街につくられたアーケードに向って何人もの男女が飛び降りたが、アーケードの屋根をぶち破って転落する人、宙づりなった女性」(1972.5.14)
[ホテル・ニュージャパン火災]
「大火災の最中にしては奇妙な光景だった。出火から約4時間半経った8日午前8時。ハンドマイクを手にした横井英樹社長(69)が、ホテル正面玄関に現れた。記者会見のためである。『まことに申し訳ない気持ちです。できるだけの償いをさせていただきます』横井社長は、開口一番こういった。頭の上では、まだ消火活動が行われている。新聞社のヘリが空を舞っている。記者たちの持つ無線機が、死亡者数の増えているのを伝えている。行方不明の客が十数人もまだいる。そんな中での記者会見だったから、当然すぎる"おわびの弁"だった。ところが、この月並みなおわびのあと、いささか調子の狂った言葉が、横井社長の口から飛び出した。『お忙しい中を皆様にお集まりいただき、また支援と同情をたまわり、大変ありがとうございます』と、新聞記者たちにお礼をいったかと思うと、『(被害が)9、10階(だけ)ですんだのは不幸中の幸いでした』『9、10階の防火設備は完全だった』(「週刊朝日」1982年2月19日号)
[日航ジャンボ機事故]
「墜落していく日航ジャンボ機の中で、家族にあてて遺書を書き残した乗客が何人かいた。そのひとり、神奈川県藤沢市、大阪商船三井船舶神戸支店長の河口博次さん(52)は、手帳7ページに『パパは本当に残念だ。きっと助かるまい』『幸せな人生だった』などと、生への望み、死への恐怖あきらめをつづっていた。
マリコ/津慶/知代子/どうか仲良く/がんばって/ママをたすけて下さい/パパは本当/に残念だ/きっと助かるまい/原因は分らない/今5分たった/もう飛行機には乗りたくない/どうか神様たすけて下さい/きのうみんなと/食事したのは/最后とは/何か機内で爆発したような形で/煙が出て/降下しだした/どこえどうなるのか/津慶しっかり/た(の)んだぞ/ママ/こんな事になるとは残念だ/さようなら/子供達の事をよろしくたのむ/今6時半だ/飛行機は/まわりながら/急速に降下中だ/本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している」(1985.8.19)
[「なだしお」と衝突、沈没した「第一富士丸」乗組員の話]
「(第一富士丸の)船内のサロンで針の仕掛けを作っていた。サロンには18人ほどの客。みな、大島到着後の計画などを楽しそうに話していた。景色を見ようと甲板に出た。そのとたん、左斜め前に潜水艦の艦首。艦上には数人の人が見えた。『あっ、ぶつかる』。直後、『ドーン』という振乱『キャー』『ワー』という女性、子供の悲鳴が聞こえ、船は左側に一気に傾いた。自ら飛び込んだのか、落ちたのか、気がつくと海の中。塩辛い水を飲み、海面に浮き上がると、そばにいた子供が片手をけがして浮いていた。長さ2㍍ほどの木片が浮いているのをみつけ、必死に子供に差し出し、2人でつかまった。ほかにも2人ほど、木片やブイにつかまり、浮いていた。間もなく近くにいたタンカーからボートがおろされた。タンカーの甲板に上がると若い女性4人、子供2人男の人が4、5人ほどいた。みんな毛布をかぶり、口もきけない状態だった」(1988.7.24)