戦後昭和史 | 事件史

事件史「新聞・雑誌から」

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[帝銀事件]

「聖母病院入院中の預金係村田正子さん(22)の話。
『無色の液体をみんなで飲むようにいわれて飲んだがすごく苦かった。飲んですぐ気もちが悪くなり洗面所へかけつけたところさきに行員が一杯つめかけており見ている間にバタバタ倒れそのうち自分も意識不明になってしまった』」('48.1.27)

[平沢貞道死去]

平沢貞道

95歳の死刑囚、平沢貞通が危篤になる前のある日、看護婦と一緒に「浦島太郎」を歌った、という話はかなしい。『帰って見ればこは如何に/もといた家も村もなく』。平沢は『しゃばで一杯』を切望していたが、一方では、たとえ浮世に戻ることができても、39年間の空白はうめられないという苦い気持ちもあったろう。竜宮城の浦島は『ただ珍しく面白く/月日のたつも夢の中』だったが、平沢の獄中生活は、死と向かいあった日々だった」('87.5.11・天声人語から)

[下山事件]

「5日あさ日本橋三越本店に入ってからあとプッツリ消息を絶っていた国鉄総裁下山定則氏(49)は6日午前零時25分列車にひかれたバラバラの死休となって発見された。場所は足立区五反野南町の常磐線と東武電鉄との交差点ガード下の常磐線線路上で、ガード下から下り方面へかけて約50㍍の区間に寸断された死体の部分、衣類が散乱目もあてられぬ惨状であった。雨にぬれた砂利にころがっていた同氏の腕時計はちょうど零時20分を指して止っていた。消息を絶ってから約14時間この間1人の目撃者もなく、下山氏が日本橋から草深い現場までどうして連れて来られ、または運ばれて来て、かかる無残な死体となったのか」('49.7.7)

[三鷹事件]

「目撃者の三鷹駅前下連雀256ラジオ商青木徳氏(21)は語る。
◇‥西側踏切(武蔵境側)があがっているので、安全と思って渡ろうとしたら、矢のようなスピードで車庫の引込線から電車が走って来た、あわててとびのいたが、ヘッド・ライトが消えて運転台には確かにだれもいなかった、客の乗っていない室内燈が明るくついたまま、電車は下り線ホームを突切って人家にとびこみ、とたんにあたりは真暗になった」('49.7.16)

[金閣寺放火を語る
犯人林承賢]

「国宝を焼いたことを悪いとは思わぬ。法的制裁を回避する気はない。村上住職から度々しかられたが、原因は自分にあったからうらむどころではない。母親が来てくれたそうだが、愛情を感じていないし、迷惑がかかるから教子の緑を切ってもらいたい。こういう考え方は自分の主観によるもので、とうてい他人にわかるようには表現出来ない」('50.7.4)

[築地八宝亭事件の犯人
山口常雄が、発覚前に
朝日新聞社へ寄せた
「私の推理」と題する手記]

「八宝亭の4人殺しの1人の生き残り者として私は、現場の様子を世間の人にお知らせして犯人が1日も早く検挙されることを祈っている。まず、犯行は計画的だったと思う。何故なら凶行数時間前に私が廊下に降りると女は『私の親類のものです。泊って行きますが』と言った。その時、男は私に顔を見られないように伏せていた。女が女中にして下さいと八宝亭を訪ねて来たときには家の前の「女中入用」のはり紙はなく、それは1週間も前にはがれていた。女は客が来た時にも顔を見られないように本を読むふりをして顔をかくしたり、人としゃべることも極力さけていた。今考えるとナマリを知られまいと思ったのではなかろうか。…つまり、私は浅草をはじめ上野あたりに根城があり、しかも仲間の多い不良の仕業で、この男か、あるいは男の友達が1、2度八宝亭に来たことがあり家の様子を知っているのではないかと思う。世間では、私が凶行の日の朝の9時ごろ起きたのはおかしいという人もあるが、私はいつも9時ごろやって来るゴミ屋の鈴を聞いてから起きる習慣になっているので故意に遅く起きたのではない」('52.3.6)

[第五福竜丸事件]

「無線長久保山愛吉さん(40)の話『ちょうど午前4時ごろ水平線上にかかった雲の向う側から太陽が昇る時のような明るい現象が3分ぐらい続いた。約10分後爆弾が破裂したようなにぷい音も聞いたが、それから3時間すると粉のような灰が船体に一面に降りかかった。その晩は飯も食えず、酒を飲んでも酔わなかった。2日目あたりから幾分頭の痛い人も出てきた。3日目には灰のかかった皮膚がひやけしたように黒ずみ、10日くらい経ってから水ぶくれの症状になった。いまのところ自覚症状は何もない』」('54.3.16・夕刊)

[ジラード事件]

「射殺された坂井なかさん一家は夫秋吉さんら8人家族、大正9年旧日本陸軍に土地を強制買収され、1町5反の耕作地が5反に減った。最近では生活はもっぱらこの弾拾いの収入に頼っていた。同じ上新田地区ではほとんど全戸が弾拾いに出る。相馬村と隣りの北群馬郡桃井村を合せ、300~400人の村人にとって完全な生業とさえなっていた。うまくいけば日に2、3貫の破片を拾い、週1度来る"仕切屋''に貫700~800円の高値で売る。これが1日最高2,000円。少ない日でも200~300円の月平均2万円になるから安い日雇い仕事をやるものがいない。演習が激しくなるほど弾拾いも激しくなるわけで最近では発砲しながら突撃演習をする米兵に"従軍"して手袋をはめて発砲直後の熱い薬キョウを争って拾い実弾射撃中をくぐったり、中には砲弾の着弾点近くにタコツボを掘り、爆発を待つものさえあった。当然犠牲者が出るわけで、1月中ごろに破片で弾拾いの一青年が死んだが村人は『運が悪かった』とあきらめ、弾拾いは続けられていた」('57.2.7)

[山谷暴動]

「同夜8時ごろ、酔っ払った30歳ぐらい、人夫風の男が山谷町4ノ7、山谷宿泊所に現われ『友だちに会わせろ』といってどなったので、店番をしていた番頭がこれをなだめ、男といさかいとなった。知らせを受けた山谷交番の宮崎巡査が2人を連行したところ、近くで夕涼みしていたドヤ街の人夫たち約500人が「何だ、何だ」といって交番を取り巻いた。この騒ぎでヤジ馬が続々と集まり、群衆は約2,000人にふくれ上がった。そのうち暴徒のようになった群衆は手に手に石を持って交番に投げこみ出した。1階の窓ガラスや表戸のガラスは破れ電話線3本のうち2本も切られ交番の中にいた浅草署員と機動隊20人はツクエをタテにして防戦したが、2階へ追いこめられた。いきおいに乗った群衆は交番前の日除けのヨシズをこわし、5、6㍍もある丸太棒や角材を交番めがけて放り投げた。さらに交番前の道路に近くの看板やへイなどをこわして集め、これに火をつけ交番の焼き打ちにかかった。この間、群衆はヤジ馬をふくめ3,000人にふえ、道路いっぱいとなった」('60.8.2)

[浅沼委員長刺殺]

「あまりにも場内が騒々しくなったため、司会席のNHK係員が浅沼氏の演説をいったん中止させ、マイクの前に寄って「静粛にしてほしい。せっかくのお話が聞けなくなる」と要望した。聴衆の大部分のはげしい拍手があったのち、浅沼氏が再び演説を続けた。そのとき、一少年が演壇に走り上がった。30センチぐらいの刃物が薄暗い場内の照明ににぷい光をはなつ。あっという間のできごとだ。不幸にも、その近くには人がいない。浅沼氏は、その少年のかけよるのをみて、ちょっと身じろぎ、腰をかがめたが、少年は何かを口走りながら、胸部をめがけて一つき、相当力をこめていた。浅沼氏の大きな体がぐっと前かがみになり、少年はこれをめがけてまた一刺し、舞台のカゲにいた人たちがバラバラとかけだして、やっと少年をとりおさえた」('60.10.13)

[吉展ちゃん誘拐事件]

平塚八兵衛

「小原の取調べに当った警視庁捜査1課平塚八兵衛部長刑事は自供前後の模様を次のように語った。供述のアイマイな点などを追及していくと小原はノドをゴクゴク鳴らし始めた。とたんに顔色がやや青ざめ鳥ハダが立って来た。自供を終えると小原は泣きながら『申訳ないことをした。出来たら線香をあげさせてほしい。私はどんな罰をも受けるし、自分で償いもするつもりだ』と心境をもらした。22年間接査に当って数多くの犯罪者を調べたが、初めはあれほどがん強に否認しながら、いったん自供すると、心から改心の情を見せたのは、小原が初めてだ。小原の犯した罪は憎んでもあまりあるが反省する小原の姿を見ているとむしろ哀れというか、気の毒な男という気がする」('65.7.5)

[金嬉老事件]

金嬉老

寸文峡温泉の旅館に立て籠もった金は21日午前9時20分、朝日新聞言諸の質問に、電話で次のように語った。
「問 自首するつもりはないか。答 テレビやラジオを通じてわたしに自首を呼びかける声を聞いたが、私が死ぬのは時間の問題だ。世間を騒がせたことに対し自分で死刑を執行するということだ。(意外に落着いた声、ひといきいれて)こんどの事件の裏には、こどものころから心の中にひっかかっていた朝鮮人という差別の問題がある。ごく最近のことだが、ある刑事から朝鮮人じゃないかとけなすような言葉を直接いわれ、心がにえぐりかえった。このことをマスコミを通じて、釈明してもらわないうちは死なない。(一気にしゃべる)
問 いまの心境はどうか。答 罪のない旅館の人たちに迷惑をかけたことは申訳ない。この責任は死んでつぐなう。だが警察があやまりにこない限りダメだ。("人質"の旅館の家族や宿泊客は渡さないとの意味か)」('68.2.21・夕刊)

[3億円事件]

「10日午前9時25分ごろ、府中市の府中街道から約100メートル横道にはいった府中刑務所横に日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車=3人が同乗、車は64年型セドリック乗用車二がさしかかったところ、突然、現れた白塗りのオートバイに、自ヘルメット姿の、交番警官そっくりの男が近づき、停車を命じた。男は『この車に爆弾がしかけてある、と連絡があったので調べさせてもらう』といい、関谷さんはじめ4人を車からおろした。犯人はおもむろに輸送車の下にもぐり爆薬をさがすようなふりをしたうえ赤い発煙筒をたき、口にマイクロホンをあてて、『あぶないあぶない』と田中さんらを近づけないように制止し、さらに遠くへ行くように命じた。すっかり信じ切った中田さんらが車から離れると、男はすさをみて運転台に乗込み2億9,430万7,500円の現金がはいったアルミ製の箱三つを積んだ輸送車を運転、そのまま小金井方向へ逃走した。犯人はそのときは1人で22、23歳、1メートル65センチから70センチ、皮ジャンパーに白ヘルメット、白マスク姿。現場には犯人が乗捨てた『多摩 い 1129』のバイクが残されていた」('68.12.10・夕刊)

[自衛隊員にまかれた
「楯の会会長三島由紀夫」
名の「檄」の大要]

「われわれ栃の会は、自衛隊によって育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは、何故であるか。(略)たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失なひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態べ落ち込んでいくのを見た。(略)われわれは、いまや自衛隊にのみ真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。

しかも、法理論的には自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃(たいはい)の根本原因をなして来てゐるのを見た。(略)4年前、私はひとり志を抱いて自衛隊にはいり、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念はひとへに自衛家力唱ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあった。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ治安出動こそ、その唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。(略)

しかるに、昨昭和44年10月21日何が起ったか、総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て私は『これで憲法は変らない』と痛恨した。(略)政府は極左勢力の限界を見極め戒厳令にも等しい警察の規制に対する「股民衆の反応を見極め、敢て『憲法改正』といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗切る自信を得、国の根本問題に対して頼(ほ)っかぶりをつづける自信を得た。(略)それまで憲法の私生児であった自衛隊は『護憲の軍隊』として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。かくなる上は自らの力を自覚して国の論理の歪(ゆが)みを正すほかに道はないことがわかってゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙ったままだった。われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。(略)
われわれは4年待った。われわれは熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜(ぽうとく)する者を待つわけには行かぬ。しかしあと30分、最後の30分得たう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。

今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれ玖今からでも共に起ち共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子ご真の武士としてよみがへることを熱望するあまり、この挙に出たのである」('70.12.10・夕刊)

[金大中事件]

金大中事件

「自宅に戻った金大中氏は14日午前零時半、かけつけた内外の記者団約50人を前に東京のホテルで失踪したあとの6日間の足どりを次のように語った。ホテルで男たちに無理やり部屋に連れ込まれたあと、麻酔薬をかがされ気を失ったが、エレベーターを降りる時に気がついた。エレベーターの中には日本の若い男女がいた。『助けてくれ』と言ったが、男たちに押えられ、そのままホテルの地下室駐車場に連れ込まれた。それから約5時間半、目かくしをされたまま車は走ったが、大阪らしい所に着いた。

その日の夜10時ごろだったと思う。自動車で約1時間走ったあと海岸に着き、ボートに乗せられ、次にはかなり大きな船に乗せられた。私はホテルから車に乗せられたあと両手両足はしぼられ、さるぐつわをかまされテープで目かくしをされた。海に投げ捨てられるかと思った。しかしボートは間もなく大きな船に横づけし私はこの船に乗せられた。私は船のことには詳しいが、千馬力程度の船と思われる。この船底に閉じ込められ、9日昼ごろまで船の中にいた。この間犯人の男たちはずっと私に付き添った。口数は少なく、訓練がよく行き届いている男たちだと思っていた。上陸する直前になって男たちは自分らが『救国同盟行動隊』のメンバーだと名乗った。韓国に上陸したのは11日だった。どこに若いたかはわからないが、その夜は2階建ての家に閉じ込められた。12日も睡眠薬を飲まされそのまま留め置かれた。13日夜になって『お前は約束を守るか』と男に言われ、『これから家に帰してやる』といわれた」('73.8.14)

[3億円保険金殺人事件]

「テレビ出演の荒木虎美は、濃い茶色のダブルに身を包み、スタジオ内の壇上に、どっかりすわった。バッグには、事故で死んだ妻と義理の娘2人の大きな写真。荒木を囲むようにして、司会の寺島純子さん、推理作家の戸川昌子さんら4人が質問を始めた。『自分は潔白だ』と、荒木は約30分にわたり主張したが、司会者の追及に怒り出し、退場してしまった。姿勢もくずさず、手ぶりもまじえて、荒木は初め、質問にていねいに答えていた。ときには笑顔もまじえるほどの落ち着きぶり。しかし、20分ほどのやりとりのあと、目撃者の話との食い違いをつっこまれると『主人のいうことと、他人のいうことと、どっちを信用するんですか』と繰り返しはじめた。戸川さんが、なおも質問しようとすると、急に大きな声で『ひきょうだ。そんなバカな質問には、答えられない』といって立ちあがった。そのまま、壇を飛び下りるようにして、大またでスタジオの出口に向かう。

血色のいい顔を紅潮させて、すっかり興奮した様子。荒木はその後、警察庁の係官とフジテレビの裏門に現れて、警察の車に乗り込んだが、終始笑顔を浮べ、自分からまわりをとり囲むカメラマンを整理するほど。車に乗っても、見送りのテレビ局員に手を振って笑顔であいさつをしていた」('74.12.12)

[ミグ25亡命事件]

「警察庁によると、ベレンコ中尉は同方面本部の調べに対し『ソ連の生活には自由がなく、帝政ロシア時代と同じだ。ぜひ自由のあるアメリカに行きたいと前々から考えていた。日本に行けば自分の目的が達成できると思った』と、亡命の動機と意思が強いことを明らかにした」(’76.9.7・夕刊)

[花柳幻舟・家元刺傷事件]

「寿輔さんは午後4時半から第2部の最後の出し物『長唄・日追いの径』に、おじの寿楽さんとともに出演、午後9時15分、千秋楽の舞台をはねた。寿輔さんは舞台を下り、数人の弟子に囲まれながら楽屋に向かって約20メートルほど歩いた。そこへ、黒いコートを着てサングラスをかけ、廊下のソファに座っていた幻舟が、大きなバラの花束を手渡すふりをして近づいた。幻舟は突如、その花束の中に隠していた刃物をとり出し、『思い知ったか』と叫びながら切りつけた。寿輔さんは『何すんのさ』と抵抗した。フジ色の舞台衣装の胸元には、血が飛んでいた。幻舟は廊下の角にもたれかかり、刃物を握ったまま、『逃げません、逃げません』とつぶやいていた。まわりにいた寿楽さんや弟子たちは、ぼう然と突っ立つばかりで、大道具係の人たちが来て、幻舟を取り押さえた、という」('80.2.22)

[富士見病院乱療事件]

「埼玉県所沢市美原町の主婦A子さん(29)は、生理不順のため、53年10月ごろ、芙蓉会富士見産婦人科病院で北野理事長の医用電子機器(略称ME)検査を受けたところ、「卵巣がはれ、子宮に大きなおできが出来ている」と診断され入院、同市和ケ原の主婦B子さん(41)と隣のベッドになった。B子さんは妊娠していたが、体の不調を訴え、ME検査を受けたところ、「子宮筋腫」と診断され、先に入院していた。北野理事長から、A子さんは「卵巣の片一方と子宮のおできを取ろう」といわれ、B子さんは子宮の手術と中絶をすすめられていた。ところが、医師が症状について詳しい説明をしてくれないことと、B子さんの場合、さほど体が悪いとも思えないのに車イスに乗せられるなど、不審な点が多いため、2人は「なんだかおかしいわネ」と話し合うようになった。

結局、A子さんは夫(32)と連絡を取って、しきりに引きとめる病院側とほとんどけんか状態になりながら11月3日ごろ退院した。この時、B子さんに「私は心配だから、防衛医大付属病院で診察してもらう。なんでもないといわれたら、あなたに連絡するから、あなたも退院なさい」と告げた。A子さんが翌日、防衛医大付属病院でME検査などを受けたところ、「正常」との診断結果だった。すぐさまA子さんは富士見産婦人科病院にいるB子さんに電話し「早く退院しなさい」と告げた。B子さんはこの日、病院側から手術承諾書を取られた直後で急ぎ夫(40)に迎えに来てもらい、強引に退院した。この時北野理事長は「命に別条があるかもしれないのに、素人が出たいから出るとはなに事か」と言ったという。B子さんも翌日、防衛医大付属病院で診察を受けたところ、やはり"シロ"という結論、体の不調はつわりだったことがわかった。('80.9.13・夕刊)

グリコ・森永事件「かい人21面相」から江崎グリコ社長室長、取締役あての脅迫状]

グリコ・森永事件

「人質はあづかった 現金十億円 と 金100kgをよおい しろ現金と金は 白か アイポリイのライトバンに/のせて あすのこご5じまでに藤江部長の/タカツキの うちの まえにおけ車には 北摂の道路に くわしい/会社の運てん手だけ/のっておけ/れんらくは藤江 のうちえ TELするこのことを しらせてええのは とりひきさきの/銀行の支店長とけいきつに しらせたら 人質を/かならず 殺す/けいきつにも会社にも 電電公社にも ナカマがいる ぎゃくたん知 しても すぐわかる金 もらったら 科学的な 調査して 24じかんしたら 人質を かえす現金は 新きつを つかうな とりひきは いっさい しない/いうことだけ きけ('84.3.22)

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