戦後昭和史 | 発掘史詳細

発掘史詳細

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[登呂遺跡]

静岡市に所在する弥生時代後期の集落遺跡。戦時中の1943年に発見されたが、本格的な発掘調査は1947年から4年に渡って行われる。調査の結果、12軒の住居と2軒の高床式倉庫からなる集落にともなって、40面もの水田跡や付属設備が確認された。また、農具や機繊具などの木製品が良好な保存状態のもとに検出されるなど、当時の農耕生活を知る上で貴重な成果をもたらした。1952年には国の特別史跡に指定され、公園整備化が進められた。

[岩宿遺跡]

群馬県笠懸村に所在。1946年晩秋、無名の考古学研究青年だった相沢忠洋氏が、道路によってできた独立丘の切り通しを通過しているうち、ローム層中に黒曜石が介在しているのを発見、以来数多くの石器を採集。1949年、この発見を磯に明治大学考古学研究室が調査を実施。その結果、今まで日本にはないとされた旧石器時代に相当する文化を初めて確認し、縄文時代以前にも日本に人数文化が存在したことを証明する画期的発見となった。

[高松塚古墳]

奈良県明日香村に所在。8世紀前後の築造で、古墳としては終末期のもおのである。1972年に橿原考古学研究所によって調査が行われ石槨(棺を納める部屋)内に極彩色の壁画が描かれてることで大きな話題を呼んだ。漆喰を塗られた壁面には男女の人物群像や四方を守護する四神、日像と月像、古代中国の星座にあたる星宿が良好な状態で遺っている。1973年には国の特別史跡に指定されたが、保存のため非公開・永久密閉の処置がとられた。

[稲荷山古墳]

埼玉県行田市埼玉古墳郡中に存在する全長120メートルの前方後円墳。時期は5世紀末から6世紀前半。1968年に後円部頂の2つの埋葬施設が発掘され、1978年に西側の礫槨より出土した鉄剣をエックス線撮影したところ115文字の金象篏銘を発見、一躍有名になった。銘文中の「ワカタケル大王」とは、倭の五王の一人雄略天皇であり、「辛亥年」は471年を示すというのが通説。現在鉄剣は国宝指定を受け、埼玉県立さいたま資料館で展示中。

[修羅]

1978年春、大阪府藤井寺市三ツ塚古墳の周濠の底より、ふたまたに分かれた全長9㍍と3㍍の大小二つの木製品が出土した。当初この木製品は古代船との見方が強かったが、材質上水に浮かないことが分かり、近世に石材を運搬する道具として用いられた「修羅」に近いものと推定された。それを確認するために復元実験が試みられ、コロや滑車などを併用すれば、小人数でも数十トンもの巨石を楽に運べることが明らかになった。

[太安吾侶の墓]

1979年奈良市田原町の茶畑で、茶の木を植え替え中の竹西英夫氏が、『古事記』の編纂者太安萬侶の墓と銅製墓誌を発見。墓誌は遺骨を納めた木炭櫛の床に裏返しに置かれ、その上に火葬骨を入れた木櫃がのっていた。遺骨の鑑定では、安萬侶は小柄な体つきで、歯槽膿漏のため歯が数本抜けていたらしい。木櫃中には他に真珠や漆喰片も入っていた。竹西氏には文化庁から280万円の報奨金が支払われ、銅製墓誌は重要文化財指定を受けた。

[荒神谷遺跡]

島根県斐川町の丘の斜面から、1984年358本の銅剣が一括出土した。これは全国の総出土を大幅に上回る数である。弥生時代中期後半から後期初頭にかけて造られたとみられている翌年には同じ斜面から銅鐸6口と鋼矛16本がまとまって出土した。この発見で、哲学者の和辻哲郎が提唱した畿内中心銅鐸文化圏と北九州中心の胴剣文化圏の考え方に見直しが求められ、当時出雲に強大な権力を持つ集団の存在が示唆されるようになった。

[藤ノ木古墳]

奈良県斑鳩町に所在する6世紀中頃の古墳。1985年の調査で、横穴式石室の中に未盗掘の朱塗り家形石棺が確認され、石棺と奥壁の間から、動植物の装飾をあしらった豪華な金銅製馬具が見つかった。入念な検討の後、1988年には石棺の蓋が開かれ、金鋼製の冠や層、脛当て、簡形製品、鋼製大帯、耳飾り、玉類などの副葬品を多数検出。また、被葬者は2人でしかも後の鑑定から両者とも男性であることが判明した。

[黒井峯・西組遺跡]

群馬県子持村に所在。1985年12月から始まった発掘調査により、6世紀の榛名山の噴火で埋没した古墳時代後期の農村跡がそっくり出土した。農村は竪穴式住居20棟と、古墳時代では初確認の平地住居3棟に加え、畑、住居と細を結ぶ作業道、中庭や祭祀場などから構成されている。1988年には、噴火の際に逃げ遅れて死亡したとみられる人の痕跡も発見,突然の噴火のために当時の生活が生々しく遺されており、「日本のポンペイ」と呼ばれた。

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