戦後昭和史 | 昭和のテレビドラマ

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日本のつつましいホームドラマ

アメリカのホームドラマに憧れを感じながら、日本のつつましいホームドラマにも親しみを覚えた。経済成長に合わせて日本のホームドラマも豊かになっていくが、そこは家庭ではなくただのセットにしか見えなくなった。

戦後、NHKがテレビの実験放送を再開。昭和28年に本放送が始まり、初の連続ドラマ『幸福への招待』(28~29年)が登場。これもホームドラマだった。民放では毎日一定の時間に一定の量の内容が継続的に流される連続帯ドラマの第1号は、8月5日開始の日本テレビ「轟先生」である。太平洋戦争中に秋好馨によって生み出され、戦後昭和24年に読売新聞に再登場、以後73年11月まで通算7762回も連載された漫画のテレビドラマ化である。「轟先生」は漫画のドラマ化の第1弾で、主人公にはイメージぴったりの古川ロッパが粉した。これに刺激されて、柳家金語楼の「おトラさん」、宮城まり子の「てんてん娘捕物帖」などがKRテレビから登場する。

ボンボン大将』は隅田川のボンボン船の船長が、3人の孤児を育てる物語だ。船長自身も浮浪児あがりで、たぶん戦災孤児だったのだろう。彼は駄菓子屋の2階に住んでいるが、その駄菓子屋のおばあさん(飯田蝶子)が船長の母親がわりだったのかどうか、記憶が定かではないが、もしそうだとしたらこのドラマは小津安2郎監督の戦後第一作『長屋紳士録』(22年)の続編みたいな話だ。『長屋紳士録』では飯田蝶子が勝どき橋の近くの長屋で雑貨屋を営んでいた。戦前戦後の小津安2郎の映画がテレビのホームドラマに与えた影響は、けっこう大きかったのかもしれない。小津は『おはよう』(34年)で、子どもとテレビを描いてもいる。小津の白黒時代の映画でも、テレビのホームドラマでも、当時の日本家屋はとにかく暗くてせまい。明るいナショナル・・・とか、「光る、光る東芝…といったCMソングも、30年代のある時期までは、大いに説得力があったのである。『夕やけ天使』にも当時の住宅問題が反映されているようだし、子役時代の松島トモ子が出演していた『悦ちゃん』(NTV 31年)は、当時としてはわりに珍しい2階建の家が庶民の夢を反映していたように思う。たしかスポンサーが日本電建とかいう住宅メーカーで、そのCMに出てくる2階建の家もやけに明るくモダンに見えた。また当時の日本映画のファン雑誌を見ると、スターの新居紹介、愛車自慢といった特集が非常に多い。日本人にもアメリカのホームドラマのような生活ができるのだ、といわんばかりだが、庶民にとっては真新しいマイホームもマイカーも、まだまだ夢でしかなかった。

消えゆくホームドラマ

アメリカのホームドラマを模倣した番組は、俗に"パパ・ママもの"と呼ばれた。しかし昭和30年代半ばに両親のことを「パパ、ママ」と呼んでいる子どもたちが、どれぐらいいただろうか?"パパ・ママもの"の草分けは『パパは何でも知っている』の日本版『ママちょっと来て』(NTV 34~38年)だ。会社部長のパパ(千秋実)とママ(乙羽信子)と子どもたち。舞台は東京の山の手。まあ、中流の上といった家庭だろう。『パパだまってて』になると、もう少し上流の家庭が舞台になり、何不自由ない一家の日常が描かれる。『咲子さんちょっと』は、母屋に住む老夫婦と、はなれの部屋に住む新婚夫婦の物語。老父は清水昆みたいな古風な漫画家で、息子はテレビ番組の作曲家。その息子の嫁が咲子さんだ。毎回、家族の誰かが「咲子さ~ん、ちょっと!」と呼ぶ声でドラマが始まる。例えば、この家の男はトイレに物を持ち込むクセがある。老父はトイレで本を読み、息子はラジオを聞く。孫息子が生まれると、彼はオモチャを持ってトイレに行くようになる。ある日、老父が息子の仕事に必要なテレビの台本をトイレに持って入り、息子は台本が見つからないので大騒ぎをする~というように、2世代同居から起こる小さな事件を描いたドラマだ最終回は、老夫婦か息子夫婦の部屋に移り、咲子さんが一家の主婦になる。これからは「咲子さん、ちょっと」と呼ぶのはやめようということでハッピーエンド。39年に一時間枠の大型ホームドラマ『7人の孫』が登場。3世代同居の大家族ということで、さらにリッチになる。同じ大家族ドラマでも『ただいま11人』は、もう少し現実味がある。父は停年が近い。長女は未亡人で幼稚園の先生、次女はテレビ局のディレクターだが変人なので独身。この2人のほかに全部で9人の子どもがいる。母は自分の欲しい物も買えない。今度の冬のボーナスは全部、母に使ってもらおうということになるが、結局、母はデパートで家族のための買物をして帰ってきてしまう。

昭和41年に始まった外国テレビ映画『奥さまは魔女』は、30年代とは違う形の影響を日本のホームドラマに与えた。いささか現実はなれした設定のシチュエーション・コメディーの登場である。『コメットさん』やアニメの『魔法使いサリー』などの"魔女っ子もの"は、漫画の原作があるとはいえ、明らかに『奥さまは魔女』の影響が見られるし、『おくさまは18歳』も『おさな妻』のバリエーションではあるが、その設定は(隣家のおばさんの存在まで)『奥さまは魔女』の焼き直しである。題名は忘れたが、緑魔子がドジな魔女に扮した新婚ドラマまであった。『丸出だめ夫』(NTV 41~42年)や『忍者ハットリくん』(NET 41年4~9月)も、この種のホームコメディーといえるだろう。その後、商売ドラマや下町ドラマのブームがあり、小津軍一郎の世界と似て非なる木下恵介のシリアスドラマもあったが、現在では連続ホームドラマは、ほとんど姿を消してしまった。

昭和30年代の男の子の遊びで最もポピュラーだったのは(集まる人数にもよるが)『ホームラン教室』に描かれたような草野球だった。子どもたちのスポーツの種目が多様化したのは、やはり39年の東京オリンピック以降だろう。メキシコ、ミュンヘンとオリンピックのたびに各種スポ根ドラマが作られた。その多くが漫画を原作にしたもので、アニメのスポ根ものと原作を奪い合うことになった。そして実写のスポ根ドラマも、アニメに負けず、あるいはそれ以上に奇抜でマンガチックな必殺技を競い合うのだが、それを子どもたちがどこまでマジメに?見ていたかは、僕には分からない。一方では、たぶん『青い山脈』以来のマジメな学園ドラマも人気があった。テレビドラマでは、かなり初期から"先生もの"はあったらしいが、熱血教師と生徒たちの青春ドラマというパターンを定着させたのは『青春とはなんだ』であろう。この路線もスポーツと友情を軸にしてはいたが、いわゆるスポ根ものとは違い、やはり学園ドラマというべきだろう。一般公募で集まった子どもたちが、一年間、スタジオの教室で一緒に考え、成長していくというドラマ作りは、『熱中時代』(NTV 53~54年)以降の先生ドラマの原型ともいえる。先生ドラマのブームとホームドラマの低迷という現象も興味深い。

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